今日は岡倉天心に関する動画を載せてみました。とてもよく出来た動画なので、もし興味があったらご覧ください。
“ Quotes From 「THE BOOK OF TEA」 (Chapter 1 The Cup of Humanity)
by Kakuzo Okakura ”
“ Quotes From 「茶の本」岩波文庫 (第一章 人情の碗) 岡倉覚三(天心)著 村岡博訳 ”
“ Quotes From 「茶の本」講談社文庫 (第一章 人情の碗) 岡倉覚三(天心)著 宮川寅雄訳 ”
“ Quotes From 「茶の本」講談社学術文庫 (第一章 人情の碗) 岡倉覚三(天心)著 桶谷秀昭訳 ”
“ There is a subtle charm in the taste of tea which makes it irresistible and capable of idealisation.
Western humourists were not slow to mingle the fragrance of their thought with its aroma.
It has not the arrogance of wine, the self-consciousness of coffee, nor the simpering innocence of cocoa.
Already in 1711, says the Spectator: “I would therefore in a particular manner recommend these my speculations to all well-regulated families that set apart an hour every morning for tea, bread and butter;
and would earnestly advise them for their good to order this paper to be punctually served up and to be looked upon as a part of the tea-equipage.”
Samuel Johnson draws his own portrait as “a hardened and shameless tea drinker, who for twenty years diluted his meals with only the infusion of the fascinating plant; who with tea amused the evening, with tea solaced the midnight, and with tea welcomed the morning. ”
“ 茶の味には微妙な魅力があって、人はこれに引きつけられないわけにはゆかない、またこれを理想化するようになる。西洋の茶人たちは、茶のかおりとかれらの思想の芳香を混ずるに鈍ではなかった。
茶には酒のような傲慢ところがない。コーヒーのような自覚もなければ、またココアのような気取った無邪気もない。
1711年にすでにスペクテイター紙に次のように言っている。
「それゆえに私は、この私の考えを、毎朝、茶とバターつきパンに一時間を取っておかれるような、すべての立派な御家庭へ特にお勧めしたいと思います。
そして、どうぞこの新聞を、お茶のしたくの一部分として、時間を守って出すようにお命じになることを、せつにお勧めいたします。」
サミュエル・ジョンソンはみずからの人物を描いて次のように言っている。
「因業な恥知らずのお茶飲みで、二十年間も食事を薄くするにただこの魔力ある植物の振り出しをもってした。
そして茶をもって夕べを楽しみ、茶をもって真夜中を慰め、茶をもって晨(あした)を迎えた。」”(村岡博訳)
“ 茶の味には言うに言われぬ魅力があって、人は魅惑され、理想化するようになる。西洋の風流人(ユーモアリスト)はかれらの思想の香気に茶の芳香をない混ぜるのに遅鈍ではなかった。
茶にはワインの居傲やコーヒーの自意識がなく、ココアの無邪気な作り笑いもない。つとに1711年「スぺクテイター」紙は述べている。
「それ故、お茶とバターつきパンの食事に毎朝1時間をかけるどのきちんとしたご御家庭にも、この考えをとくにおすすめしたいと思います。
そこで本紙を御注文くださり、その時間にきちんと食卓に供せられ、お茶の支度の一部にされるように切におすすめします。」
サミュエル・ジョンソン自身の肖像を次のように描いている。「性懲りもない、なりふりかまわぬ茶飲みで、20年間この魅惑的な植物の煎じ汁で食事を薄めてきた。お茶でゆうべを楽しみ、お茶で夜ふけを慰め、お茶で朝を迎えた。」”(桶谷秀昭訳)
“ Charles Lamb, a professed devotee, sounded the true note of Teaism when he wrote that the greatest pleasure he knew was to do a good action by stealth, and to have it found out by accident.
For Teaism is the art of concealing beauty that you may discover it, of suggesting what you dare not reveal. It is the noble secret of laughing at yourself, calmly yet thoroughly, and is thus humour itself,—the smile of philosophy.
All genuine humourists may in this sense be called tea-philosophers, Thackeray, for instance, and of course, Shakespeare. The poets of the Decadence (when was not the world in decadence?), in their protests against materialism, have, to a certain extent, also opened the way to Teaism. Perhaps nowadays it is our demure contemplation of the Imperfect that the West and the East can meet in mutual consolation ”
“ ほんとうの茶人チャールズ・ラムは、「ひそかに善を行なって偶然にこれが現われることが何よりの愉快である。」というところに茶道の真髄を伝えている。というわけは、茶道は美を見いださんがために美を隠す術であり、現わすことをはばかるようなものをほのめかす術である。
この道はおのれに向かって、落ち着いてしかし充分に笑うけだかい奥義である。従ってヒューマーそのものであり、悟りの微笑である。
すべて真に茶を解する人はこの意味において茶人と言ってもよかろう。たとえばサッカレー、それからシェイクスピアはもちろん、文芸廃頽期の詩人もまた、(と言っても、いずれの時か廃頽期でなかろう)物質主義に対する反抗のあまりいくらか茶道の思想を受け入れた。
たぶん今日においてもこの「不完全」を真摯に静観してこそ、東西相会して互いに慰めることができるであろう。”
(村岡博訳)
“ この道の公然たる帰依者であるチャールズ・ラムの「自分が知っている無上の喜びは、ひそかに善行をおこない、偶然にそれが顕れることだ」という言葉には、茶道の真髄が鳴っていた。
茶道とは、美を発見するために美を隠し、顕わすことをはばかるものを暗示する術だからである。
茶道は自分を冷静にしかも完膚なきまでに笑う高尚な奥義であり、かくしてユーモアそのもの、悟りと微笑である。真の風流人(ユーモアリスト)はすべて、この意味で茶の悟達者と呼んでいい。
たとえばサッカレーであり、シェークスピアはもちろんである。その世紀末廃頽期(デカダンス)の詩人たち(とはいえ廃頽期でない世界がいつあったろうか)もまた唯物主義に反抗して、かなりのところまで茶道への道をひらいたのである。おそらく、今日、東西が会相会してたがいに慰めあうことができるのは「不完全」にたいするわれわれの真摯な瞑想においてなのである。”
(桶谷秀昭訳)