スーフィーはムハンマドの信奉者である必要はない。スーフィーは至る所に、あらゆる形で存在する。
なぜならスーフィズムはすべての宗教の本質的な核であるからだ。
それはイスラム教とは特に関係がない。
スーフィズムはイスラム教無しにも存在し得る。だがイスラム教はスーフィズム無しには存在できない。
スーフィズムがなければ、イスラム教は屍だ。
スーフィズムがあってこそ、イスラム教は生きている。

いつでも宗教が活き活きとしているとき、それはスーフィズムのおかげだ。
スーフィズムとはシンプルに神、究極、そして全体性との恋愛だ。
それは全体性へと溶け去る準備ができているという事を意味する。
それは全体性、究極、神聖といったものを自らのハートに招待することである。
スーフィズムは形式にこだわらない。あらゆる教義、主義、信念または教派に閉じ込められることができない。

キリストはスーフィーだ。ムハンマドも、クリシュナもスーフィーだ。そして仏陀もスーフィーだ。
これが一番最初にまず覚えておいて欲しいことだ。
スーフィズムは禅やハシディズムが
そうであるように最も深い核だということだ。
それは神、全体性との同じ究極の関係を異なった名前で表したのに過ぎない。

この関係は危険である。なぜ危険かというのは、あなたが神に近づけば近づくほど
もっともっとあなたは消え失せてしまう。
本当にあなが神に近づいたとき、あなたはいなくなってしまう。
それは危険である。何故ならそれは自殺行為だからだ。
しかし自死は美しい。
神のなかに死にいくこと
それが本当の意味で生きるという事だ。

A Sufi need not be a Mohammedan. A Sufi can exist anywhere, in any form – because Sufism is the essential core of all religions. It has nothing to do with Islam in particular. Sufism can exist without Islam; Islam cannot exist without Sufism. Without Sufism, Islam is a corpse. Only with Sufism does it become alive.

Whenever a religion is alive it is because of Sufism. Sufism simply means a love affair with God, with the ultimate, a love affair with the whole. It means that one is ready to dissolve into the whole, that one is ready to invite the whole to come into one’s heart.

It knows no formality. It is not confined by any dogma, doctrine, creed or church. Christ is a Sufi, so is Mohammed. Krishna is a Sufi, so is Buddha. This is the first thing I would like you to remember: that Sufism is the innermost core – as Zen is, as Hassidism is. These are only different names of the same ultimate relationship with God.

The relationship is dangerous. It is dangerous because the closer you come to God, the more and more you evaporate. And when you have come really close you are no more. It is dangerous because it is suicidal… but the suicide is beautiful. To die in God is the only way to live really.

OSHO 《Sufis: The People of the Path, Vol 1 : A Rare Kind of Magic》

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