Dhul-Nun al-Misri ズン・ヌーン・ミスリー(〜859)
高名な禁欲家、神秘家。上エジプトに生まれるが、父はスーダン北東部ヌピアの人。メッカ、ダマスカス(シリア)等を旅し、さまざまな師から教えを受けたという。合理神学ムウタズィラ派の説く、コーラン被造物説(※1)を否定したため、この派の側から敵視され続けた。
晩年は、ザンダカ主義(※2)として非難され、バグダードで投獄されたが、カリフ ムタワッキル(在位847〜861年)は彼の言葉を聞いた後、彼を解放したとされる。ズン・ヌーンは、その後、エジプトに戻り没した。
彼は、エジプトの古代の錬金術や文字の神秘学に通じていたとも言われる。また、神秘道の諸段階を、マカーマート(階梯、宿所)、あるいはハール(心的状態、陶酔の境地)に分類して論じ理論化した最初期の禁欲家の一人として知られると共に、「霊知(معرفة マアリファ)」「愛(حب フッブ)」に関する彼の言説も重要性をもつとされる。
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非難(マラーマト)の徒(※3)の先導者、審判の日に集まる人々を照らす燭光、高き階梯と神の純粋本質の名証、霊知と神の唯一性の王、「貧して求める道こそが我が栄誉」〔ハディース〕の証、時代の枢軸(クトゥブ)、ズン・ヌーン・ミスリー —神よ彼を哀れみたまえ— は神秘道の徒の王、艱難と非難の道をゆく旅人。彼こそは、唯一性の神秘に精緻なる見識と完全なる方法を持ち、その苦行と奇蹟(カラーマート)は数限りない。
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大半のエジプトの民は彼を偽ムスリム(ズィンディーク)と呼んでいたが、彼のなすことに驚嘆するものたちもいた。しかし生きている間中、ほとんどの人々が彼を拒否していた。ズン・ヌーンは己を隠し通していたため、死んで初めてその偉大さが知られるようになったのである。
彼の神への悔悟の理由はこうであった。
彼に、一人の敬虔なる信仰者のことが知らされた。ズン・ヌーンはこう語っている。
「私はその者を訪ねて会ったが、その男は自分の身を木に吊るしてこう言った。
“おお肉体よ。神に従うために私に力をかしておくれ。さもなくば、このまま吊るして飢え死にさせるぞ”
その様子を見て泣いていた私を見て彼は言った。
“恥の心少なく、罪多き者に哀れみをたれるのは誰だね”
私は彼の前に行って挨拶をして言った。
“これは一体どういうことですか”
“この体が《至高なる神に従え》という私の言葉を聞かず、神以外の他の人間たちとの交わりを望んでいるのだ”
私は、彼が人の血を流したり、何か大罪でも犯したのかと思った。
“神以外の者たちと交わることが、あらゆる不信仰(タフル)の根であることを知らないのかね”
私は言った。
“あなたは何という禁欲の徒であることか”
“私より、さらに禁欲の度合いの高い者に会いたくはないかね”
私は山中にいるというその者に会いに山に向かった。
私が山に入ってゆくと、修道所の戸口に一人の若者がうずくまっていた。一方の足は入口の中に、
他方の足は、外に出ている。外に出ている足は切断されていた、虫がたかりむさぼり喰われていた。そばに寄って様子を訊くと、男はこう言った。
“ある日、私が修道所に腰掛けていると一人の女が通りかかった。私の心は女の方に向かい、女の後を追って外に出たいと願った。しかし、修道所から一歩外に出た時、こんな声が聞こえた。
《おまえは恥ずかしくないのか。三十年間この方、栄光ある神を崇拝し服従を誓っておきながら、今になって悪魔に従おうというつもりか》
そこで私は外に出した足を切り取り、ここに腰掛け、どういうことが私に起こるかを待っているわけなのだ。
ところであなたはこんな罪人のところに何をしにやって来たというのだ。ほんとうの神の人に会いたいのなら山頂に行くといい”
私は山が高く辿り着けそうにもなかったので、その者の様子を尋ねてみた。
彼はこう言った。
“一人の男があの山の中で神を崇拝するようになって随分となる。ある日、彼と議論する人物がいて、日々の糧は稼ぎがあってのことだ、と説いた。その男は、被造物からの獲得物であるようなものは一切食べないと近い、全く食事をしなかったが、至高なる神は、蜂を送り届けて、その者の周囲を飛ぶようにされ、蜂蜜をお与えになったのだ”
こうしたことを見聞きして、栄光ある神への信頼(タワックル)がある者には、神がその者に手を差し伸べ、その者の苦しみを減じて下さるということを、私は知った。
山の中の道をやって来ると、一本の木の上に盲の小鳥がいた。私は言った。
“この哀れなるものは、水と草をいずくより持ち来たるのだろうか”
すぐさま、その鳥は木から舞い降り、嘴で地面をつついた。すると、皿が二枚現れた。
一つは黄金で、もう一つは銀のもので、それぞれ穀粒と薔薇水が入っていた。鳥は穀粒を食べ、薔薇水を飲むと再び木の上に止まった。すると皿は消えた。
それを見て、たちまちに、神への信頼を信じる気持ちが私に芽生えたのだった」
伝えられるところでは、ズン・ヌーンがこう言ったという。
「私には一人の貧しい友がいた。その彼が夢に現れた。
“神は君にどうふるまったかね”
“私を赦してくださった。神は、おっしゃった。我はおまえを赦す、おまえが、いかに困窮していても、邪世の下劣な者どもから何も受け取らなかったゆえに、と”」
ズン・ヌーンは言った。
「知れ、火の恐怖も神との別離の恐怖の傍では、大海に落とされる一滴の水も同じ。神との別離の恐れより以上に私の心を奪うものを知らぬ」
彼は言った。
「スーフィーとは、物を言えば、それがすべて神秘道の陶酔の境地の真理を表現するような者、つまり彼の語ることが、彼自身であるような者。彼が黙ると、聖法の義務の励行がそのまま彼の心的境地を解き明かすものとなり、諸々の執着を断ち切ることで、彼の陶酔の境地そのものが語り始めるような者」
神秘家に備わっている性質・属性について訊かれてズン・ヌーンはこう答えた。
「神秘家は、知識なく、実体なく、伝承なく、観照なく、属性もなく、真理顕現なく、ヴェールなくして、見る者を言うのだ。彼らは、彼らではなく、彼らは彼らによって在るのではない。そうではなく、彼らが彼らであるのは、神によって在るのであり、彼らが徘徊するのは、神がそうさせるからであり、彼らの言葉は、彼らの舌の上を流れる神の言葉であり、彼らが見るという行為も、彼らの目を通じての神の行為に他ならぬ。
預言者—彼に平和あれ—は、この属性について、彼からの言葉としてこう語っている。
“汝はこうおっしゃった。
《主である我は、下僕を我が友とするゆえ、下僕が我によってものを聞くように、我は下僕の耳であり、我によってものを見るように、その目であり、我によって語るように、その舌であり、我によって握むように、その手である》と”〔ハディース〕」
死の間際、遺言を求められてズン・ヌーンは言った。
「私の気をそらさないでくれ、彼の恩恵に驚嘆したままでいる身なのだから」
そして彼は死んだ。
その晩、70人の者が預言者を夢に見た。預言者は言った。
「神の友ズン・ヌーンがやってくるであろう。私は彼を迎えに来たのだ」
彼が死ぬと彼の額には緑色の文字でこう記されてあった。
「これこそは、アッラーの愛の中で死んだアッラーの友、これこそは、アッラーの剣でアッラーに愛されし者」
彼の棺が運び出されると、鳥たちが羽を重ね合わせるようにはばたかせて、陰を作った。日差しが強く暑かったからであった。
棺が運ばれて行く道の途中で、一人のムアッズィン〔モスクの礼拝を告げる人〕が礼拝を告げる叫び声をあげていた。信仰告白(シャハーダ)の所にくると、ズン・ヌーンが指を上げた。人々から喚声が上がった。
「生きているではないか」
棺が置かれた。彼が上げた指は、いくらやっても元の所に戻せなかったという。その後、彼は埋葬された。
エジプトの人々は、彼のその様子を目の当たりにして恥じ入り、ズン・ヌーンに向けた迫害を悔悟したという。
※1: コーランの原初的永遠性を否定し、コーランが神によって、創造されたと説く立場で、827年、第七台カリフ マームーンによりアッバース朝公認神学とされてから、第十代カリフ ムタワッキルによる848年の公認の取消までアッバース朝内で勢力を持った。
※2: 異端。「ザンダカ主義(者)」(ズゥンディーク)は表面上はイスラム教徒のふりをしながら、内面では二元論、特にマニ教を信奉する「偽ムスリム」を指した言葉だが、後には、この呼び名は、内面ではイスラムの預言者ばかりか、あらゆる預言者を否定し、世界の永遠性(キダム)を説く人々にも用いられた。しかし、実際の事例を見ると、この用語が広義での「不信仰(クフル)」と同義に使われる場合も多々見受けられる。元来は、イスラム以前、ゾロアスター教の経典アヴァスターを独自に解釈した人々、という意味の言葉がアラビア語に転化した言葉とされ、ゾロアスター教徒の司祭たちは、ササーン朝期、宗教改革者として登場したマズダクのことも「ザンディーク(『アヴェスタ』の注釈書『ザンド』の徒)」 —「聖典に解釈を試みるもの」— と呼んだという。
※3: 初期神秘道に見られた超俗主義。
出典:「イスラーム神秘主義聖者列伝」(ファリード・ゥッディーン・ムハンマド アッタール 著、藤井守男 訳、国書刊行会)
https://en.wikipedia.org/wiki/Dhul-Nun_al-Misri
Dhūl-Nūn Abū l-Fayḍ Thawbān b. Ibrāhīm al-Miṣrī (Arabic: ذو النون المصري; d. Giza, in 245/859 or 248/862), often referred to as Dhūl-Nūn al-Miṣrī or Zūl-Nūn al-Miṣrī for short, was an early Egyptian Muslim mystic and ascetic of Nubian origin.[1] Born in Upper Egypt in 796, Dhul-Nun is said to have made some study of the scholastic disciplines of alchemy, medicine, and Greek philosophy in his early life,[2] before coming under the mentorship of the mystic Saʿdūn of Cairo, who is described in traditional accounts of Dhul-Nun’s life as both “his teacher and spiritual director.”[3] Celebrated for his legendary wisdom both in his own life and by later Islamic thinkers,[4] Dhul-Nun has been venerated in traditional Sunni Islam as one of the greatest saints of the early era of Sufism.