あるスーフィーの物語によれば――

イエスがある町にやってきた。彼はいく人かの人々がひどく悲しそうに、深い苦悩の内に坐っているのを見た。彼はこれほど多くの悲しげな人々をこれまで見たことがなかった。彼は尋ねた。
「いったいどうしたのですか? あなた方にはどんな災いがふりかかったのですか?」
すると彼らは言った。
「私たちは地獄を恐れ、震えおののいています。私たちはどうやったら地獄から逃れられるのかわかりません。それが私たちの恐れです。それが私たちのたえざる苦悩なのです。その道を見出すまでは、私たちは眠ることもできません。私たちは休むこともできません」

イエスはこれらの人々のもとを立ち去った。もう少し先までゆくと彼は別の人たちが樹の下に坐り、最初の人々と同じようにひどく悲しげに、深い苦悩のなかにあるのを見つけた。イエスはとても不思議に思った。彼は尋ねた。
「どうしたのですか? この町では何が起こっているのですか? あなた方はなぜそれほどまでに悲しげに見えるのでしょう? あなた方はなぜそれほど緊張しているように見えるのでしょう? そんな状態で長いこといたら気が狂ってしまいますよ! あなた方には何が起こったのですか?」
彼らは言った。
「私たちには何も起こっていません。私たちは天国を失うことを、そこに入れないかもしれないことを恐れているのです。そして私たちはいかなる代価を払っても、そこに到らなければなりません。それが私たちの苦悩です。それが私たちの緊張なのです」

イエスはこれらの人々も後にした。スーフィーは言う。イエスはなぜこれらの人々を後にしたのか? それは彼らが宗教的な人々ではなかったからだ! 彼は彼らに地獄を避ける方法を、そして天国に入る道を教えるべきだった。だが、彼はあっさりと彼らから顔を背けてしまった。

彼は庭園で第三の人々を見つけた。その一握りの一団は踊り、歌い、喜び祝っていた。彼は尋ねた。
「これはなんのお祝いなのですか? あなたたちはどんなお祭りをしているのですか?」
彼らは言った。
「これは特別なお祝いではありません。私たちはただ神に感謝をし、神が私たちに与えてくれたものに感謝を捧げているのです。私たちはそれに値しないのですから」
イエスは言った。
「わたしはあなた方に話そう、そしてあなた方のもとにとどまろう。あなた方がわたしの探していた人々だ」

この物語はキリスト教徒に伝えられているものではないが、スーフィーにはいくつかのイエスに関する美しい物語がある。実のところ、彼らはいわゆる正統派の教会よりもはるかに深くイエスを理解している。これは美しい物語だ。それは恐れを通じて生きている者たちではなく、強欲を通じて生きている者たちでもなく、とてつもない感謝と喜びの中に生きている者たちだけが神の王国に入ることができると言っている。

そしてあなた方はどこで感謝を学ぶのだろう? 覚者(ブッダ)に会ったことがなければ、あなたは感謝とは何なのかを知りえない。ブッダに出会ったことがなければ、あなたはどこで祝うことを習うのだろう? ブッダは祝祭だ。ブッダは喜び祝うことだ。どこまでもうち続く宴、終わりというものを知らない、果てしなく続くダンス、永遠に歌い続けられる歌だ。

覚者(ブッダ)に出会ったことがあるのなら、一瞬でも敬うだけで――と仏陀は言う――充分だ。
あなたの恐れをすべて落としなさい。あなたの強欲をすべて落としなさい。いかに弟子としてあるかを学びなさい。みずからの内奥の中心に到達した人、もはや周辺には生きていない人、光明を得た人、存在が光となった人の精神をいかにして吸収するかを学びなさい。

その光に向けて、みずからの眼を開くことを学びなさい。「ブッダム・サラナム・ガッチャーミ、サンガム・サラナム・ガッチャーミ、ダンマム・サラナム・ガッチャーミ」と唱えることを学びなさい。それは三つの明け渡しだ。一つ目の明け渡しは目覚めた人への。二つ目の明け渡しは目覚めた人と共に暮らす仲間たちへの――なぜなら、目覚めた人のかぐわしい香りは仲間たち、目覚めた人と共に暮らす祝福された仲間たちにしみ込んでいゆくからだ。そして、三つ目の明け渡しは法、それを通じて眠っていたものが目覚めて、そしてほかの眠っている者たちも目覚めようとしている。究極の法への明け渡しだ。

これらの三つの明け渡しをして――そして一瞬でも敬うほうが、百年も礼拝をするよりも、千の供物を捧げるよりも価値がある。

Osho – The Dhammapada

 

Buddham Sharanam Gachchami
Dharmam Sharanam Gachchami
Sangham Sharanam Gachchami

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