アッタール、サナーイー、ルーミーはペルシアの三大スーフィー詩人と言われる。
12世紀の二大神秘主義詩人である2人を、ルーミーは次のように表現し慕った。

 アッタールはわが魂、サナーイーはわが両目
 われはサナーイーとアッタールの跡を追う


サナーイー


(ハキーム・サナーイー、サナーイー・ガズナヴィー
حکیم ابوالمجد مجدود ‌بن آدم سنایی غزنوی [ペルシア語]
Ḥakīm Abū al-Majd Majdūd ibn Ādam Sanā’ī Ghaznavī
/ 1080年頃-1141年頃)

サナーイーは1080年頃ガズニーに生まれ、
若い頃は頌詩詩人としてガズニー朝末期のスルタンに仕えたが、
ほどなく職を辞して各地を遍歴し、その間に神秘主義の道を歩むようになった。
彼は、神秘主義思想を叙事詩と抒情詩で表現した偉大な先駆者の一人であった。
彼の代表作『真理の園(ハディーカトル・ハキーカ)』はペルシア詩における最初の長篇神秘主義叙事詩で、
ニザーミーの『神秘の宝庫』に及ぼした影響は大きい。
彼は神秘主義抒情詩の作詩によってもペルシア抒情詩の流れに大きな変化をもたらした。
即ち従来の宮廷詩人等による抒情詩は、現実の恋、酒を讃美する抒情詩であったが、
サナーイーの抒情詩は恋人に擬えた神に捧げられる詩であり、神秘的な愛に陶酔した詩人の
心底からほとばしり出た心情の吐露であった。
彼以降の抒情詩は宗教的色彩を帯びない純然たる抒情詩と、神秘主義抒情詩とに大きく分かれることになった。

 

アッタール


(ファリードゥッディーン・アッタール
فَریدالدّین عطّار‎ [ペルシア語] Farīd al-Dīn ‘Aṭṭā / 1140年代頃-1221年頃)

サナーイーが没したのとほぼ同じ頃、1142年頃にニシャープールで生まれたアッタールは、医薬を生業としたため、アッタールと号したという。
(「アッタール」(عطّار ‘Aṭṭār)とはアラビア語で医薬、薬物、薬草(عطر ‘aṭr)を扱う「薬物商」のこと)
彼は晩年にルーミーと出会う(*後述)。
実に多作な神秘主義詩人であった彼の作品数は俗説では『コーラン』の章の数(114章)もあったと言われる。現存作品には代表作『鳥の言葉(マンテイクツ・タイル)』をはじめ、『アッタール詩集』『神の書(イラーヒー・ナーメ)』『神秘の書(アスラール・ナーメ)』『災難の書(ムスイーバト・ナーメ)』『ホスローの書』等の詩集と散文作品『神秘主義聖者列伝』があり、生来の語り部とも評されるように、多くの神秘主義叙事詩において彼は、数多くの物語、逸話、寓話を用いて神秘主義思想を表現し、この点においてもルーミーの優れた先駆者であった。
約4700句から成る『鳥の言葉』は神秘主義比喩詩で、
神秘主義者たちを各種の鳥に譬え、神に譬えられた鳥の帝王、不死鳥(スイームルグ)を求める鳥たちがいくたの苦難の末、遂に目的に到達する過程を描いた作品である。数千話の鳥が出立するが、多年にわたる苦しい旅の途中で次々に倒れ、不死鳥の御前に辿り着けたのはわずか30羽(スイー・ムルグ)であった。
神秘主義者の苦しく厳しい修行と神人合一の境地に達する者がいかに少ないかを巧みな比喩で描いている。
彼の抒情詩は、サナーイーよりもさらに熱情に溢れ、神秘的シンボリズムが強調されていると言えよう。


 
*ルーミーとアッタールの出会い
神秘主義の一派クブラー派に属していたルーミーの父は、当時の支配者ホラズム・シャー朝のムハンマドおよび彼に仕えた神学者ファフル・ウッディーン・ラーズィーに敵視されて、両者は激しく対立し、またやがて迫り来るモンゴル族襲来を恐れ難を避けようとしたのが原因となって、一家およびいく人かの弟子たちとともに、1219年(一説では1220年)バルフを去って、西方へ流浪の旅に出立した。
一行がニシャープールに達した時、同じクブラー派の老神秘主義詩人アッタールは一行を出迎え、当時12歳のルーミーに会って将来の大成を予見し、自作の詩集『神秘の書(アスラール・ナーメ)』を贈るとともに、父に「あなたの息子は世の神秘主義者たちの心に火を点すであろう」と言ったという。

 
 

出典:「ペルシアの詩人たち」黒柳恒男 著(東京新聞出版局)

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