友人たちの集い
OSHO ON HIS WORK
とても重要なことを考えるためにここに集まってもらった。私には、個々の人びとに向けて自分が話していることをいつか公開することも必要になるだろうというような考えはなかった。そういうことは考えたこともなかった。私は自分の能力と手腕に応じて、話すことが自分に嬉しいことを、その人に役立つだろうと思われることをなんでも話している。だが徐々に、何百何千という人びとと接触する機会をもつにつれて、私には限界があるということ、そして私がどんなに願っても、それを必要とするすべての人びとに私の言葉を届けることはできないのだということを認識し、理解しはじめた。そして、たくさんの人びとがこの上もなくそれらの言葉を必要としている。国中が、全地球が極端なまでに渇望し、困窮している。たとえこの惑星のほかの地域のことは放って置くとしても、この国自体が精神的な危機状態にある。
古い価値はすべて粉砕されてしまった。あらゆる古い価値に対する尊敬や敬意は消えてしまったが、新しい価値はまだ誕生していない。人間は、どこへ行くべきか、なにをすべきかもまったくわからずにただ立っている。このような状況のなかで、人間の心(マインド)がとても落ち着かず、とても苦しくまた不幸な状態に陥るのも当然だ。ひとりひとりの個人が抱えている不幸はあまりにも大きく、もしその人のハートを開いてなかを覗き込むことができたら、私たちは途方に暮れてしまうだろう。多くの人々と接触すればするほど、その人が外側から見えるのとはまったく反対のものを内面に抱えていることを知って、私はますます不思議に思った。その微笑みは偽りで、その幸福はにせもので、そのいわゆる喜びはすべて見せかけなのだ。そして、その人のなかには膨大な地獄が、深い闇が、たいへんな不幸と惨めさが蓄積している。
この苦しみ、この苦痛を撲滅する方法はある。それらから自由になることはできる。人間の生は天上の平安と旋律をもった生になりうるのだ。そしてこのような思いを抱きはじめて以来、人間の生を平安に導くことができるものを、彼らが必要としているものをその人たちにもたらさないとしたら、それはある意味で罪を犯していることになるとも感じた。意識しようがしまいが、私たちは怠慢の罪を犯していることになる。
だから私は、人々の生を変容することができるものをできるだけ多くの人にもたらすことが必要だと感じはじめた。しかし私には私の限界があり、私の能力や手腕にも限界がある。ひとりでは、私がどれほど走ろうとも、どれほどたくさんの人々に出会おうとも、それがいかに広範に渡ろうとも、周りにある生の広大さを見れば、そして深く苦悶しているこの社会を見れば、そのすべてに対処する方法などない。海岸で一滴の色を落とせば、小さな波に色はつくかもしれないが、広大な海にはなんの違いも起こらない。そして面白いのは、色がついたかもしれないその小さな波も、瞬く間に大海に呑み込まれて、その色も消えてしまうということだ。
だからここに集まってもらったのは、どうすればその平安の色彩をこの広大な生の海のなかで遠く広く広められるかを話し合うためだ。だがそれだけでなく、自分自身の平安にしか興味をもたない人は、けっして真の意味での平安に至りえないことにも私は気づいている。というのは、自分自身にしか興味をもたないということが不安の原因のひとつだからだ。自己中心でしかないということが、不安の根本理由のひとつだ。自己中心になって自分自身にしか興味をもてない人、自分の周りのあらゆることに気づこうとしない人は、美しい家を建ててその家を取り巻くゴミの山にまったく気づかない人のようなものだ。自分の敷地に美しい庭を造ったかもしれないが、その家の周り中に臭気が漂っていることをまったく気にしていない。もし周り中が汚いとしたら、彼の庭やその花々とその香りにあまり意昧はない。その臭気が彼の家にも入ってきて、花々の香りを圧倒してしまうだろう。
人間は自分だけに興味をもつべきではなく、環境にも関心をもつべきだ。宗教的な人は自分自身にだけ関心をもっているのではなく、自分の周りのあらゆることにも関心を払う。私は、自分自身の平安に関心をもつだけでは充分ではないとも感じる。平安のそよ風が、私たちが相互に関係している人たちに、私たちがつながっている人たちに、知覚あるすべての存在に到達することに関心をもつことは必要だ。それもまた私たちの関心事であるべきだ。そして自分の周りの生のすべてに平安をもたらしたいと懸命に願う人は、ほかの人びとを平安にすることには、成功するかもしれないし、しないかもしれないが、その努力そのもののなかで彼自身は間違いなく平和になるだろう。
仏陀の生涯にある逸話がある。おそらくそれは作り話だろうが、非常に美しい話だ。仏陀が涅槃(ニルヴァーナ)、究極の解放を達成してモクシャの、救済の扉に至ったとき、門番が門を開けた。だが仏陀はその門に背を向けて立った。そこで門番が「なぜ貴方はモクシャに背を向けて立っているのですか?」とたずねると、仏陀はこう言った。「私の背後にたくさんの人々がいる。彼らすべてがモクシャを達成するまで、私はここに止まって待とう。私は自分ひとりで救済のなかに入るほど酷い、残酷な、暴力的人間ではない。私が達成したすべての平安はただ、自分はモクシャに入る最後の人間になるべきだ、まずほかの人たちがすべて入るべきだ、と私に言っている」
これはとても美しい物語だ。この物語の通りなら、仏陀はモクシャの門前で、ほかの人たちがすべて先に入ることができるように、まだ立っていることになる。彼自身はみんなの最後に入りたいのだ。
このような感情が起こった人のハートは、すでにモクシャを達成している。彼はモクシャの門に入る必要などない。その人にとっては、モクシャという観念などすべてどうでもいいものになる。自分にこのような慈悲の感情が起こった人は、すでにモクシャを達成している。このような人々だけが平安に至って、周りに平安を広げるための強烈な啓示がその人生で機能し始めるのだ。
このような方向に関心をもつようになった友人たちは、自分自身に関心をもつだけに止まるべきではなく、ほかの人々やその人たちの環境にも関心をもつようになるべきだと、私は感じる。なぜなら、その関心がほかの人々に恩恵をもたらすかもしれないし、たとえそうならなかったとしても、それがその人自身にとってとても意味のあるものになり、その人たちが大いなる平安と大いなる至福に深く入ることに役立つのは、不安の理由のひとつが自己中心になることにあるからだ。そして自分の中心から周りの人たちすべてに広がっていく人は、安らかになることに向かって動きはじめる。だからここに集まってもらったのは、どうすれば愛と平安と慈愛のメッセージをできるだけ多くの人々に広げることができるか、貴方たちと話し合うためだ。そのメッセージを確実にその人たちに届かせるには、どのような方法を見つけることができるだろうか? それは可能なことだろうか? それを宣伝にしてはいけないし、カルトを作るべきでもなく、組織や集団を作るべきでもない。私たちはそれ自体が強力になるべき中心を作ろうとしているのではない。集団にもならず、カルトにもならず、組織にもならず、どんな中心権力も作らずに、できるだけ広くメッセージを広げようとしているのだ。だから、これには非常に熟慮が必要だ。
カルトを作りたいのなら、たいして考える必要はない。組織を作ろうとしているのなら、それについてたいして考える必要はない——集団や組織の作り方なら、世間の誰もが知っている。何千というカルトがすでに作られている。私たちはそれらのカルトのなかにもうひとつのカルトを作ろうとしているのではない。だからこそ私たちはそのことを徹底的に考えて、カルトや組織を作らずに、しかも自分が愛しているもの、自分にとって至福と感じられるものを誰にでも分かち合えるようにしなければならないのだ。私たちは宣伝機関にはなりたくないが、それでもその普及は可能かもしれない。
だからこれはとてもデリケートな問題だ。とても注意深く、大きな感受性をもって徹底的に考える必要がある。これは綱渡りのようなものだ。ひとつの選択肢は、カルトになる危険があるという理由で、まったく普及させないことだ。私たちはこのメッセージをまったく誰にも広めないということだ。そして二番目の選択肢は、このメッセージを普及するが、それがカルトになってしまう場合だ。その危険も存在する。私たちはメッセージを広げなくてはならないが、絶対にカルトにはならないように注意する必要がある。
だからこれは、宣伝もせず、カルトや組織にもならずに、普及を可能にするという問題だ。必要な伝達を、生きたメッセージを、最大多数の人々に届けるためにだ。あなたたちを招いたのは、この事を話し合うためだ。私はあなたたちに二、三の基本的な事柄を話して、それを充分に考えてもらうつもりだ。
第一のことは、今日の友人たちの集いは、このメッセージほどには大きくないということだ。組織は必要ない、必要なのは集いだけだ。だから組織と集いの違いを、明確に理解する必要がある。集いとは、誰もが自由だということ、誰もが自由に来て、自由に立ち去るということだ。集いの意味は、誰もが対等で、誰もがより高くもより低くもなく、どんな階層にも属さず、誰も追随者ではなく、誰も指導者ではないということだ。これが集いの意味だ。私たちが作るべきなのは友人たちの集いであって、内部に権威や、階層や、地位の上下がある組織ではない。組織にはそれ自体の下部構造がある。そこには一番下から一番上までの階層があり、段階もあれば地位もあり、それとともにあらゆる政治が入ってくる。なぜなら、身分や地位があるところには必ず政治が入って来るからだ。地位をもっているものは、誰かが自分に取って代わりはしないかと怯えるようになる。地位のない者は、なにかの地位にたどり着こうと懸命になる。だから組織にはそれなりの危険がある。
私たちは、組織ではなく友人たちの集いを作らなければならない。この集いのなかでは、誰もが対等で、等しい価値をもっている。誰ひとり権威でもなく、誰ひとり偉くもなく、誰もがより高くもなければ、低くもない。それぞれの人は自分の愛からそこに来たにすぎない。愛を除けば、ほかに従わなければならないどんな命令も存在せず、果たすべきどんな宣誓や誓約をしたわけでもなく、どんな誓いや指令に関わったわけでもない。彼はただ自分の愛と個人の自由意志で加わったに過ぎない—–だからそうしたければいつでも去ることができる。それにこの集いに参加しているときでさえ、どんな教義やイデオロギーにも拘束されてはいない。そのときにも異なる意見をもつ自由があり、自分の考えをもち、自分の考えに従い、自分の智恵に従う自由がある。そこにいるのは誰かの追随者になるためではない。だから、友人たちの集い“ジーヴァン・ジャグルティ・ケンドラ”が生まれるかもしれない。私たちはこの線に沿って考えなければならない。
もちろん、友人たちの集いが形成されるルールは、組織が形成されるルールとは異なる。友人たちの集いとは、完全に無政府主義的施設と呼ばれうるものだ。それに引き替え、組織は規則や原理や法によって結びつけられるうまく計画されたシステムだ。私が法や、規則や、原理によって人びとを拘束するつもりがないのは、まさにそれこそが私が闘っている相手だからだ。そのような組織ならすでに世界中に存在している。そんなものをもうひとつ作ってもなんの意味もない。確かに、組織にはより大きな効率性があり、集いにはそれほどの効率性はありえない。だが自由を犠牲にして効率を求めるのは高価な取り引きだ。民主主義は独裁ほど効率的ではないが、効率は犠牲にできても、自由を犠牲にすることはできない。
友人たちの集いとは、それが自由な個人の自発的な会合であることを意味する。もしそのなかに幾つかの小さな法やシステムがあったとしても、それは個人よりも下位に位置するもので、上位のものではない。それは機能的なものだろう。それが目的ではありえない。いつでも自由に、私たちはそれを破棄することができる。けっしてそれらが私たちを崩壊させる能力をもつべきではない。法は私たちのためにあるのであって、その反対ではない。これを心に留めておくことが重要だ。
さて、ある友人たちは憲章があるべきだと考えている。確かに憲章はあるべきだが、それは組織のための憲章のようであってはならない。友人たちの集いの憲章であることを念頭に置いて、それは構成されるべきだ。それはごく機能的なものになるだろう。それは実用上のもので、この目的のために要点を述べているのであって、どうしてもなくてはならないというものではない。それはいつ廃棄処分にしてもかまわない。そしてその憲章にどれほどの価値があっても、私たち個々の友人たちのほうがそれより価値があることを心に止めておくことが重要だ。なんと言っても、これらの友人たちのためにその憲章が作られたのだからだ。この憲章のために彼らが集まってきたわけではない。だから私たちは、全員ひとりひとりの個人の価値と尊厳が守られるような友人たちの集いを作らなくてはならない。明らかなことだが、個人の数が多くなればなるほど、その人たちの考え方や理解の仕方は多様になるだろう。友人たちの集いが大きくなればなるほど、当然、その人たちのなかでの相違点は大きくなるはずだ。
だから私たちは画一性を生み出そうとすべきではない。さもないと、それは組織になってしまう。そして画一性を生み出そうとすればするほど、その人の個性、その人の尊厳、その人の自由が破壊されはじめる。重要なのは画一性ではなく、すべての友人に対する尊敬、意見の異なる友人に対してさえの尊敬だ。なぜなら私のヴィジョンのすべては、国中に自由な考え方が生まれうるということだからだ。だから自由な思考を生み出そうとする人びと自身がコントロールされた思考の罠にはまれば、そこには危険が生まれる。だから私に対してさえも、この友人たちの集いはどんな特別の敬意も示すべきではない。私に対するときも、合理的なアプローチと知性的なアプローチがあるべきだ。私が言うことが自分に正しいと思われたら、それが自分の好みに合ったら、有益に見えたら、そのとき初めてあなたはそれを人びとに伝えるべきだ。ただ私がそれを言ったからという理由だけで、私の言うことを人びとに伝えるという過ちを犯してはならない。
友人たちの集いがある個人を中心にすべきでもないのは、その人が、私あるいはほかの誰かが、崇拝の中心になりかねないからだ。私たちはどんな崇拝対象ももたず、誰の信者でもなく、また私たちにはどんな指導者もいない。集団的には、私たちはあるヴィジョンを、あるメッセージを愛しており、それがより多くの人びとに到達すれば彼らが利益を得るだろうと感じている。それが私たちが集まってきた理由であり、このヴィジョンを人びとにもたらしたいということだ。
だからまず最初に、私たちは組織について話そう。私たちが作りたいのは組織ではなく、たんなる友人たちの集いだ。だから私たちは、このふたつのあいだの微妙な相違を理解する努力をしよう。この友人たちの集いが組織にならないように努力するのは、ひとりひとりの個人の責任になる。それは私ひとりの手中にはない。私は言うことができるだけで、それは私ひとりの手には負えない。だから私たちがひじょうに油断なく意識していなければ、それは組織になってしまう危険がある。だからひじょうに警戒する必要がある。組織にならないようにするには、それはひじょうに意識的な実験でなければならない。
カルトが形成される未知の方法がある。私たちがそれに気づきもしないうちに、カルトは形成されはじめる。だから、私たちはそれについて注意しなければならない。前もってそれに気づいていれば、それが起こらないような方法で物事を処理できるかもしれない。これがひとつの可能性だ。そしてもうひとつの可能性は、それが組織かカルトになるかもしれないと恐れて、私たちがまったくなにもしないということだ。それがもうひとつの危険だ。なにもしなければ、広めなくてはならないメッセージを広めることはできない。そうなればメッセ!ジを人びとにもたらすためにできるかぎり駆け回ることが、私ひとりの肩にかかることになる。私はいずれにせよそれをつづけるだろう。私にとってはなんの違いもない。だがその同じメッセージは、より多くの人びとに届けられるかもしれない。協力する友人たちが多ければ多いほど、それはより遠く、より容易に到達できる。
しかも今では科学が技術を多く開発し、社会を近代化しているから、それを利用しないのは馬鹿げているといえる。それを利用しなかったら、間違いを犯していることになるだろう。たとえばここで、私がマイクを使わずに話したとしてもなんとかなるだろう。私の声はあなたたちにあまり明瞭には届かないかもしれないが、それでもまあなんとかなる。人数が少なかったら私の声は聞こえるだろう。だが人数がもっと多かったら、私の声は充分に届かないことになる。マイクを使えば、私の声は遠くまで届く。現在では、利用できる技術をすべて使えば、仏陀やマハヴィーラがそれを望んだとしたら、二〇回の生涯をかけて成し遂げることができたであろうより、もっと多くのワークを、ひとりの人間の生涯で成し遂げられるほどの技術が手に入る。仏陀やマハヴィーラは不利だった。利用できるあらゆる手段を使って、彼らは充分すぎるくらいのワークを成し遂げた。だがもし今の時代に同じ方法で仕事をするように求めるとしたら、それはまったくの愚かさでしかないだろう。
現在ではたくさんの技術が手に入り、そのすべてを使うことができるのだ。だからひとりの人間が一回の生涯で、現代の技術がなければ四〇〇年間生きてもできなかったほどのワークを成し遂げることができる。だから私たちはこれらの技術をすべて利用しなくてはならない。これもまた、重要な考慮事項だ。
私がひとりでそれをすることは不可能だ。そのためにはたくさんの友人たちが必要であり、多くのタイプの友人たちが必要だ。ある人は手仕事ができるだろうし、ある人は知性を使うことができるだろうし、金銭の管理ができる人もいれば、ほかのことで役に立てる人もいる。その人の理解がどんなものであれ、その人の気質がどんなものであれ、それに応じて手伝うことができる。友人たちがバラエティに富めば富むほど良いということを覚えておくのも重要だ。異なったタイプの人たちが来てさまざまな方法で貢献し、さまざまなタイプのワークをし、さまざまな手助けを提供すればするほど、それだけワークが豊かになるからだ。
内輪の仲間だけのなかにいる友人たちが、見知らぬ他人を恐れるということがよく起こる。彼らが恐れるのは、知らぬ者が入って来るといろいろ面倒を起こすということだ。だから一般に起こることは、どこかで友人たちの集団がひとつに集合すると、つねに内輪の仲間を作って、新しい友人がそこに加わるのを恐れるようになることだ。その恐れは、新しく来た者がもめ事を起こすかもしれないということだ。そしてこの恐れは自然なことでもある。この防衛感情がすべて悪いというわけではない。だが二五人の古い仲間がひとりの新来者を恐れるというのは、ひじょうな弱さの兆候だ。むしろ私たちの考え方は、その新しく来た人が私たち二五人を変化させるというのではなく、私たち二五人のほうがその新しく来た人を変容するというものであるべきだ! それにひとりの新来者が私たちを変化させることができるほど私たち二五人が弱いのであれば、私たちは変化させられるべきだ。そうしていけない理由がどこにある? そのなにがいけないのかね?
いつも起こることだが、集団がひとつに集まると内輪の仲間がそこに形成されはじめる。するとその仲間とその外側の人びとのあいだに、ある距離が生まれる。それは知らずに起こることで、誰もそれを意識的にやってはいない。これはマインドの自然な特質だ。見知らぬ村に行ったとして、あなたに数人の伸間がいたら、おそらくあなたはその村で友人を作らないだろう。あなたはその数人の仲間に取り囲まれて、そこから出ようとはしないだろう。あなたが避けようもなく独りぼっちであるような状況では、話は違ってくるに違いない。あなたは友人を作ることだろう。
そうでなければ、あなたは新しい友人を作ろうとはしないだろう。
つまり、あらゆる集団はそのままでいたいという傾向をもっている。そこに閉じこもっていたいという傾向がある。そして閉じこもっていることにはある種の安全性がある。すべてはわかっていて、すべていい。自分が好きなことはなんでも、ほかの者たちも好きだ。誰か見知らぬ者が入ってきたら、なにか新しいことを言って全部かき乱すかもしれない。が、私たちはこの恐怖を捨てなくてはならない。このワークが大きく広がるべきものだとするなら、この恐怖は捨てなくてはならない。力点は大きな受け入れ能力を保つことにあるべきだ。自分のハートを広くまたオープンにして、まったく反対の性質の人びとでさえ同化できるほどに両腕を遠くまで広げることであるべきだ。誰ひとりとして放っておいてはいけない。私たちは自分のなかに、自分とまったく異なる人びとさえ容れられる空間を作らなければならない—–そして彼が私たちの役に立ちうるどんな能力をもっているかを見つけなくてはならない。
これに関連しては、インドで遠くない過去にマハトマ・ガンディーが大きな実験をした。彼はそれぞれ別な見解を、それも反対の見解さえもっているようなたくさんの人びとをいっしょに集めた。似ても似つかぬ人びと、そこにどんな意見の合意も見いだせないような人びとが同じ傘の下に集まり、壮大な事業を手伝った。
特定の試みにおいて、違う意見や考えや人格の者が含まれるべきではないと考える者がいたら、絶対にその事業は大きくなれない。それはごく限られたものとして止まる。それは「遠いところから来るあらゆる河川が私といっしょになるべきではない。どんな泥やごみが入っているかわからないし、どんな物質やミネラルを持ち込むかわからない。それにその水がいい水か悪い水かもわからない」と考えている小さな小川のようなものだ。もし川がこういう線に沿って考えはじめたら、それは小川のままでいるしかない。大河ガンジスになることはできない。だからもしガンジスになるつもりなら、それらのすべてを受け容れなくてはならない。だから、あらゆるものを受け容れるという能力がそこでは必要になる。
なるべく多くの人びとを一致させられる方法を熟考することが必要だ。私たちは空間を創りださなくてはならない。私たちは徐々に、どうすれば人びとに仲間に入れる機会を提供できるか、どうすればその人たちのワークを見つけられるか、その人たちも参加できるように援助できるのか、その方法を見つけなくてはならないだろう。
実にたくさんの人たちが全国からやってきて、私にワークの手伝いをしたいと言っている。ひじょうに多くの人びとがどうすればワークの手伝いができるかと手紙でたずねてきている。これらすべての友人たちが貢献できる余地を作るのはあなたたちの責任だ。だからなんの役にも立たない人がありうるなどという観念を完全に捨て去ることだ。地上にはそんな人は存在しない。人のことなど言うまでもなく、動物や鳥たちでさえ助けになることができる。彼らの助けさえもが……。なんの役にも立たない人は絶対にいない—–地上の誰ひとりとして無用ではない。だから私たちは、興味をもった人たちにどうしたらいちばんいいワークをしてもらえるかを見つける必要がある。
もし私たちが、この人はこうだからとかあの人はああだからというようなことを心配したら、それはひじょうに難しいことになるだろう。つまり、決める前に椅子に座って人びとを判断しようなどとしたら—-第一、他人のことを座って判断する権利など誰にもないが——そしてほかの人たちを判断しようなどとしたら、どれほどたくさんのワークを抱えることになるか想像もできない。
ある男がガンディーのアシュラムによく来ていた。人びとは、彼がじつに不道徳で、酔っぱらいで、あれもやったこれもやったと、苦情を言った。ガンディーはそれを全部聞いているだけだった。ガンディーがこの男がアシュラムに来ないように追放しないこと—–それどころか彼はだんだんガンディーに近づくようになり、ついには追い出される心配がなくなって、男はむしろ傲慢な態度でアシュラムに入ってくるようになったのだ—–友人たちはひじょうに当惑した。ある日、ガンディーの側近の何人かが状況があまりにも酷くなったとガンディーに告げた。その日、彼らはこの男がパブに座っているのを自分の目で見たというのだ。その男がカディ、つまりガンディー・スタイルの服を着てワインを飲んでいるのはなんともみっともない不面目なことで、あんな男がアシュラムに来ているのはまったくの不運で、これではアシュラムの不名誉になってしまうというのだ。
するとガンディーは言った。「私はいったい誰のためにこのアシュラムを開いたのかね? いい人のためだろうか? それなら良くない人はどこに行ったらいいのかね? それにいい人なら、そんな人がこのアシュラムに来るどんな必要がある? 第一は、私がなんのために、また誰のためにここにいるのかということだ。そして第二には、彼がカディを身にまとってパブに座っていたから、人がどう思うだろうかとあなたは言う。もし私が彼をそこで見たとしたら、私なら彼をこの胸に抱きしめたことだろう。というのも、私の心に最初に起こるのは、これは驚いた、どうやら私の言葉は大衆にまで届きはじめたらしい、という思いだからだ。酒飲みまでが、カディを身にまといはじめた、と。あなたたちには、カディを身にまとっている者がワインを飲んでいるように見える。私には、酒を飲む者がカディを身にまといはじめたと見えただろう。そしてそれなら、その男が酒を飲むのを止める日もそう遠いことではない。その男には変容がはじまっている。彼は勇気を示した。少なくともカディを身に着けた。彼のハートに愛が生まれた、彼には変容がはじまったのだ」
だから、この男をどちらの側から見ることもできる。カディを着ながら酒を飲んでいるようにも見える。そうすればあなたのマインドは彼をアシュラムから追い出したくなる。だがそのことは、別の側から見ることもできる。酔っぱらいがカディを身にまとっている、と。そうなれば大喜びでその男をアシュラムのなかに歓迎したくなる。
もしこのアシュラムが拡大していくべきものなら、また大衆にまで広がっていくべきものなら、あなたたちは一番目の観点ではなく二番目の観点を取らなければならないだろう。そうなれば誰が私たちに近づいて来ようとも、その人のいい点だけが見え、どうすれば彼に手伝ってもらえるかが見えるだろう。また私があなたたちに言いたいのは、もし私たちが愛の目でその人を見はじめたら、私たちは計りしれない、また金では買えないほどの大変なエネルギーをその人に与えているということだ。
もし二〇人のいい人びとが悪い人をいい人として受け容れはじめたら、その人が悪い人間でありつづけることは難しくなる。だが全世界が誰かを悪い人間だと言いはじめたら、その人が悪い人間になったりそうでありつづけることは簡単になる。誰かが泥棒でも、別の人間がまるで彼が泥棒ではないかのような信頼を示したら、その人の盗む能力や盗みをする可能性は弱まるだろう。なぜなら、他人のハートの良い感情を尊敬しない者などどこにもいないからだ。もし泥棒が私たちのなかにいたとして、私たちが彼をあたかもいい人であるかのようにただ信頼することができたら、彼はここで盗むことはできなくなるだろう。それはあらゆる通常の則に反するようだが、それは不可能になる。なぜなら自分を尊敬し信頼してくれるそれほどたくさんの人びとのほうが盗むことよりずっと貴重になって、彼はそれを拒否できなくなるからだ。
どんな個人にもいい人間になりたいという感情があるのだが、問題は誰もそのことを受け容れる用意がないということだ。だから自分をいい人間として受け入れる用意のある誰かに出会ったら、その人のなかになにが目覚めるかは想像もできないほどだ。
あなたたちはアメリカの女優グレタ・ガルボの名前を聞いたことがあるかもしれない。彼女はヨーロッパのある小さな国の貧しい家庭に生まれた。そして一九歳まで彼女はただ向然で床屋の手伝いの仕事をしていた。
彼女が剃刀で髭を剃っていたあるアメリ力人の旅行者が鏡に映った彼女の顔を見て言った。「ひじょうに美しい。あなたの顔はひじょうに美しい!」。グレタは彼に言った。「なにをおっしゃるの? この仕事を六年もやってるけど、私をきれいだなんて言ってくれた人はいないわ。なにをおっしゃるの。ほんとうに私はきれいなんですか?」
そのアメリカ人は言った。「あなたはひじょうに美しい。こんなに美しい女性は私はめったに見たことがない」
グレタ・ガルボはその自叙伝にこう書いている。「まさにその日、私は初めて美しくなった。ひとりの男性が私を美しいと言ってくれた。私自身はそのことを知らなかった。その日、家に帰って鏡の前に立ったとき、私は自分がまったく別の女性に変身しているのに気づいた」
一九歳まで床屋の手伝いをしていたこの少女は、のちにアメリカの大女優になった。そして感謝すべき相手として彼女が記憶していたのは、彼女に初めて美しいと言ったそのアメリカ人だけだったのだ。彼女は言っている。「もしこの男性がその日、私にこのわずかの言葉を言ってくれなかったら、私はたぶん生涯床屋の助手で終わったでしょう。私は自分が美しいなどとは思ってもいませんでした」。彼はそれをごく無頓着に言ったにすぎないのかもしれない。彼がちょっとお世辞を言ったにすぎないということはありうることだ。この男性が自分の言ったことを意識すらしていなかった可能性だってある。それはその場限りのちょっとした言葉にすぎなかったのかもしれない。そしてその単純な自分の言葉が、ある女性のなかに美しさのイメージを誕生させ、どうしてかそれまで彼女のなかで眠っていたものを目覚めさせたことに気づきもしなかったかもしれない。
誰かになにかをしてもらいたいと望むなら、その人のなかに眠っているものを目覚めさせることが必要だ。そしてその人が現在どういう人であるかというより、その人がどんな人になりうるかというほうに焦点を合わせることが必要だ。なすべき大きな仕事があり—-しかも助けなしには、どんなワークも成し遂げられないかもしれないのだ—–私が、こうしてあげなさいと言ったら、あなたがたは、「しかしあの人間は良くありません。彼は不正直で信頼できません」と言うかもしれない。その人間が悪いとか不正直だということはどうでもいいのだ—–そうでない者がいるかね? そして問題は彼が現在どうであるかではなく、むしろ彼がどんな人間に成りうるかだ。もしなにか大きなワークをしてもらうつもりなら、その人間のなかにある可能性を呼び起こさなくてはならないだろう。
クリパラー二はガンディーのアシュラムでコックとして働いていた。あるアメリカ人のジャーナリストがアシュラムに滞在していて「あなたたちの食事を料理しているこの人はJ.B・クリパラー二みたいだが」と訊いた。クリパラー二は、皿を洗っていたのだが、「この老人には驚いた! 実際、私はコックにしか向かない人間だったが、この人は曰く言いがたいものを私のなかに呼び起こした」と言った。この目覚めは最も取るに足らない人間にさえ起こりうる。
いったんその人間を呼び起こしたら、その人の魂のなかに眠っているものを近くに引き出してその人を信頼したら、いったん呼びかけてその人のなかに眠っているものに向けた挑戦課題を創りだしたら、多くのものが彼から出てくる可能性がある。また最も偉大な人間でさえ意気消沈させることもできる。偉大な人間に、お前はつまらない人間だと言ったら、そして色々なところで何度かそう言われるのを彼が聞いたら、彼がつまらない人間になるのは保証つきだ。
だからもしこの国に大規模な精神革命を成就すべきなのだとしたら—–そしてそれが起こることは絶対に必要だ—–また、もし私たちにその道を開く以上のことはできないとしても、誰かほかの者がそれを完成させるのだから、それで充分だ。誰を介してそれが起こったところで、なんの違いもない。要点は、それが私たちだけを通じて起こらなければならないということではない。そうではなく、もし私たちがその道さえ開くことができ、いつの日か革命がそのあとを引継ぐことができたら、それで充分すぎるくらいだ。あとは自ずから起こる。だからもしそれを成すべきなのだとしたら、ひじょうに包括的な集団を形成する必要がある。組織はけっして包括的ではありえない。友人たちのグループはひじょうに包括的で、ひじょうに広範なものでありうる。なぜならそのなかに多様性を受容できるからだ。誰も強制されたりコントロールされない。グループのなかでは誰もが自由であり、誰もがコントロールされるべきではない。なぜなら、知性ある人は自分がコントロールされているのを感じたら必ずそのことによって苦しむからだ。知性ある人は誰も隷属を喜ばない。劣等感をもっている人びとはコントロールされることを望む。劣等感でいっぱいになっている人だけがつながれることを望む。そのほかには誰もそんなことを望む者はいない。
だからこの集団をひじょうに開いた集団として保ち、誰かがなかに入って来ても自分はどこかに入った、自分はなにかに縛り着けられたとは感じないようなものにしなければならない。彼は自由に感じるべきだ。なかに入ろうが出ていこうが、そのことが彼にとって違うようには、なにかの違いがあるとは感じられないようにすべきだ。
私はそのような集団が起こってほしい。友人たちのそのような包括的な集団が起こってほしい。なぜなら、最初革命のために集まった人びとはそれがどれほど大きな革命になるかに気づいていないからだ。レーニンの仲間たちは一九一七年に起こったことがあのような大きな現象になるとは思っていなかった。ヴォルテールと彼の仲間たちも、フランス革命がなにをもたらすかを知らなかった。ガンディーと彼の友人たちもなにが起こるのか、あるいは起こらないのかを知らなかった。キリストはそこでなにがはじまっていたのかを知ることはできなかった。キリストにはわずか八人の友人がいただけで、その彼らもあまり教育のある人びとではなく、ただの野人にすぎなかった。ある者は大工であり、ある者は靴職人であり、ある者は漁師だった—–無教育な人びとだ。キリストにはそれがどれほど広大な革命になるのか、いつか世界の半分が彼のメッセージを知る日が来るなどとは想像できなかった。彼はそんなことを想像もできなかっただろう。最初に種を蒔く者に、その樹がどれほど大きくなるかを想像した者などいない。もしそうだとしたら、そのワークは信じられないほど素晴らしいものになっていただろう。
ますます多くの人びとと国中で出会っているうちに、私はこのワークは巨大なバニアン樹に成りうると感じはじめた。何千人という人びとがこの樹の木陰で憩うことができるだろう。それは何百万という人びとの渇きを潤すことができるほどの巨大な泉に成りうる。だがこのことは、最初にここに集まった友人たちにはまだ明瞭ではない。もし彼らがそのことに気づくことができたら、おそらく彼らは組織的にワークをはじめるかもしれない。
最近、私はある科学の本を読んでいた。ロシアでは道路を建設するときに、百年間にどれだけ多くの人びとがその道路を使うことになるかを計画し、それからそれに応じて道路を造るという。ところが一方私たちときたら、私たちもこの国で道路を造るが、二年間にどれだけの人がそこを旅するのかすら考慮しない。だから二年毎に道路をまた掘り起こして幅を広げなくてはならない。そして五年毎に交通量が増えて、その道路がもはや適当ではないことに私たちは気がつく。私たちは目が見えないのだろうか、どのくらいの人びとがその道路を使うか、算定すらできないのだろうか?
特定の街に百年後にどれだけの人びとがいるか、百年後にどれだけの人びとがその道路を使うことになるか、そして百年後にその道路がどれほどの広さである必要があるのかを計画することができ、それに沿って現在どのように建設したほうがいいかを決定できるこの人たちは驚くべき人びとだ。先見の明をもつ人たちのワークは容易になり、それだけ繰り返しの面倒も少ない。
今現在は友人たちのグループは小さい。だが一〇年もするうちにそれはあなたたちが想像もできないほど大きくなっているかもしれない。だから私たちはそれを念頭に置いてワークをしなくてはならない—-その可能性を考えた広さの道路を造らなけれぱならない。一〇年も経てば、見知らぬ人びとがこの道を歩いていることだろう。あなたはここにいないかもしれない、私はここにいないかもしれない、私たちの誰もここにいないかもしれないが、誰かはこの道を歩いていることだろう。だから私たちは、ワークをしているときそれを念頭においていなくてはならない。そして私たちは、自分たちが貴重なのではないということも覚えているべきだ。貴重なのは私たちが創り、そして私たちがその生涯を捧げているこの道だ。もしそれが大きくて充分に広いなら、たくさんの人たちがその上を歩くことができるだろう。
私たちはこれらの点を細部まで考慮する必要がある。そしてそれについてなにができるかを調べるには、それらの点をそれぞれ詳細に熟慮することが必要だ。細部についての私の理解はごく限られたものだ。それらのことについては、私よりあなたたちのほうが理解がある。
私があなたたちに話すことができるのは、それについて考えておく必要があるいくつかの中心的要点だ。だが私は、細部についてはほとんどなんの理解もない。物事をどう処理するか、それをするのに何人の人間が必要になるか、どれほどの金が必要になるか、どれほどの労働が必要になるかというようなことだ。こういうことはすべて、たぶんあなたたちのほうが私より良く知っている。それをどう具体化し、どこまで踏み込むか、そういうことすべてについてはあなたたちのほうが私より間違いなく良く知っている。私はそのイロハも知らない。私が、自分の考えをあなたたちに話そう、そしてあなたたちの考えも聴こうと思ったのはそのためだ。そうすればこの二組の考えのあいだで、それらを組み合わせれば、もしかしたらなにかが可能になるかもしれない。
私はあなたたちに空についてなにかを話すことはできるが、地上のことはあまり知らない。そして空についての話だけでは、あまり価値はない。根は大地のなかに入らなくてはならないし、大地から水と栄養を受け取らなくてはならない。だから私は、樹がどのように天を覆って広がりうるか、そしてどのように花開きうるかを話すだろうが、あなたたちは根について少し考えなくてはならないだろう。そしていいかね、花は根ほどに重要ではない。花は根に依存しているのだ。
この樹が成長できるように、私たちはこのワークにどんな根を与えることができるだろう? 私は、それが大きくなろうとなるまいと、私のすべての努力とエネルギーをそれに注ぐつもりだ—–現に私はそうしている。それは私にとってはワークではない。それが私の喜び、私の至福なのだ。私に仲間がいようといまいと、どんな違いもない。それは同じようにつづくだろう。だがもし仲間がいたら、このワークは大きなものになり、たくさんの人びとに到達できるかもしれない。私は、これら二、三の要点についてあなたたちにいくつかのことを言った。今度はあなたたちが細部まで考えてみてほしい、なにができるか、どうすればそれができるかを。ごく開いた心で、それを少し考えてみてほしい。
私がここで行なっているキャンプは小さなキャンプだ。だがそのときには、このワークに関心をもった全国からの私の友人すべてのためのキャンプを準備することを考えることになるだろう。このキャンプは実験的なものだ。より少ない人数のほうが、より容易に結論に達することができると思われるからだ。大きな数の人びとでは、おそらくそれほど簡単ではないかもしれない。
だから私たちは熟慮すべきであり、そのあとでもう一度全国から人びとが集まれるキャンプを開催すべきだ。その人たち全員が互いに会うことも必要だ。その人たちが互いに知り合うことが必要だ。彼らはそれぞれ自分の地域でワークをしている。彼らのワークのためにはあなたたちの協力と激励が必要だ。彼らはそこで孤独を感じるべきではない。全国にはもっと多くの友人たちもいること、自分がそこにひとりで立っているのではなく自分には旅の仲間がいること、そしてもし忠告を与えるために全員がいっしょになる必要があったら、あるいは成し遂げるべきワークがあったら、それらの友人たちがやってきて助けてくれるのだと、彼らは感じるべきだ。
最近、ラジコットにいる友人が私に言ってきたことだが、彼らは私がまだ行ったことがない都市や場所で私のメッセージを広げたいと望んでいる。そして彼らは私がそこに行くことができるような基盤を創りだしたいと思っている。たしかに、それが必要になってきた。私が新しい都市に行くと・何百人または何千人という人が私の言葉を聞きに来る。もしなんらかの準備作業が前もってなされていれば、一万人、五万人の人びとが私の言葉を聴くことができたかもしれない。
別の地域の友人たちは別の提案をしてきている。彼らの提案はひじょうに重要であり、ひじょうに有益だ。それらの友人たち全員が、この状況を考えるために会うことができる。この会合はそれが起こるための基礎になるだろう。だから今のところは私はこれ以上は言わない。その考えというのは・私たちが全員で考え熟慮してなんらかの結論に達した上で、確固とした決断に基づいて前進できるようにすれば、今度はそれが逆にワークを成し遂げるだろうということだ。
今日はこれでいいかね。
OSHO