人々は名ばかりの生を生きている。
ただ息をしていることが生なのだろうか?
食べものを消化することが生なのだろうか?
夜になると寝床に入り、朝が来れば寝床から出るだけが生なのだろうか?
子供が成長し、青年になり、そして老人になり死んでいく。
それが生なのだろうか?
生とは生まれては死んでいくだけのものだろうか?
あるいは、ただわずかに子孫を残していくことなのだろうか?
そうではない。
それなら機械でもできる。
いまは無理でも、いずれは機会が行うようになるだろう。
子供たちが試験官の中で生まれるようになるだろう。
幼年期、成年期、老年期といったものは、機械的にやって来る。
機械を製造しても、いずれその青年期と老年期が来る。
どんな機械でさえも幼年期、青年期、老年期がある。
時計を買っても約十年は動くという保証付きだ。
新品だった時計も老朽化し、やがては壊れていく。
あらゆる機械は作られ、働き、そして壊れていく。
だから私たちが普通生と呼んでいるものは、まったく機械以上の何ものでもない。
生は、それとはまったく違うものだ。
もし明かりのついてない電球が電流のことを知らなかったら、
その状態が生というものだと思うだろう。
突風で揺り動かされると、「私は動いている。私は生きているんだ。」と電球は言うだろう。
電球はそれを自分の生だとみなすだろう。
だが、もし電球に話すことが出来たなら、初めて電流が流れてきた時、
何と言うだろうか。きっとこう言うだろう。
「何と表現すればいいのだろう!自分に何が起きたのか、私にはわからない。ほんの少し前まで、私は暗闇に包まれていたのに、
今は光に溢れ、四方八方にその光を放射している」
種子は、成長して樹となった日には何と言うだろう?
「自分に何が起こったのか、私にはわかりません。それを言葉にすることもできません。
私は小さな苗木でした。けれど今は、私に何が起きのかわかりません。
そして、それが私を通じて起こったとも言いがたいのです」と言うだろう。
だからこそ、神を知った人々は自分で悟ったとは言わないのだ。
ただ、それまでの自分の生まれ変わった自分との間には、何のつながりもないと言うだけだ。
彼らは言う、「以前はまったくの暗闇だった所が、今では光に包まれている。
刺にしかすぎなかった私たちが、今や咲き誇る花となった。
以前は、私たちは死んだように身動きできなかったが、今は生に溢れている。
違う、まったく違うのだ」。知るものたちはこのように言う、
「それはすべて神の恩寵だ。神の恩寵によって私たちに起こったことであって、自分の努力によるものではない」と。
けれども、それは努力の余地がないという意味ではない。
神を悟った時、それが神の恩寵だと感じるのは本当だろう。
だが、その恩寵に達するには多大な努力の旅が必要だ。
それはどのような努力だろうか?
ある意味では努力などたいしたことはないが、
別の意味ではそれはとてもたいへんなものだ。
その中枢はさほど遠くにはないという意味では、たいしたものではない。
エネルギーが蓄えられているところと、生を見る目が開くという地点との距離はたいして離れてはいない。
それは二、三フィートほどの距離もない。
どうしてみたところで、私たちはたった五、六フィートの中に納まっている。
すべての器官が、この小さな空間の中におさめられている。
生命力が蓄えられている所は、クンダ、池のようなもので、
セックスセンターの近くにあるーーー
そのエネルギーがクンダリーニとして知られているのはそのためだーーー
それはあたかもクンダ、つまり池のようだ。
また、クンダリーニと呼ばれるもう一つの理由は、それがとぐろを巻いて眠っている蛇のようにも見えるからだ。
大蛇の眠っている姿を見たことがあれば、
どのように鎌首をのせ、とぐろを巻いているのかわかるだろう。
だがその大蛇の眠りを妨げると、目を覚ますや否や、
とぐろを解きその鎌首をもたげる。
このエネルギーがクンダリーニと呼ばれているのは、生命力の池、
すなわち生命の根源がちょうどセックスセンターの近くにあり、
そこから生命があらゆる方向に拡がっていくからでもある。
覚えておくといいだろう。
セックスから得る些細な快感は、それそのものの快感ではなく、
セックスにともなって沸き起こる生命エネルギーの池の波動によって得られる、
というのが本当だ。
眠れる大蛇がセックスによってわずかに動く。
そして、私たちはそれを人生最大の悦びだと思っている。
大蛇が完全に目覚め、体じゅうを駆け巡り、脳にある究極の中枢に達した時、
何が起こるのかまったくわかっていない。そのことについてはまったくの無知だ。
私たちは、生という梯子の第一段目で生きている。
そこにはまだ他の段階が、より高い段階があり、それは神へと通じている。
体の中の二、三フィートというわずかな隔たりも、別の意味では非常に大きな隔たりだ。
その隔たりはとても大きい。だが、人間という存在の中ではわずかな隔たりでもあり、
それは瞑想によって越えられるものだ。
あなたの中で眠っているエネルギーを目覚めさせようと思うなら、
それは大蛇の眠りを妨げて起こしてしまうのと同じくらい危険だということを、
しっかりふまえておかねばならない。
実際には、大蛇を起こすのはそれほど危険ではない。第一に九十七%の蛇には全く毒がない。
だから百匹の蛇のうち九十七匹とは、何の心配もなく戯れることができる。
それらが危害を及ぼすことはないのだから。もし蛇に噛まれて死ぬ人がいるとしたら、
実は噛まれたせいではなく、蛇に噛まれたという想いから死ぬのだ。
普通の蛇には毒はない。百匹の蛇のうち九十七匹は人を殺すことなど無いのだが、
蛇に噛まれて大勢の人が死ぬ。そうなってしまうのは、人は蛇に噛まれたら必ず死ぬものだという思い込みがあるからだ。
思い込みに囚われると、それが現実のものになってしまう。
本物の毒蛇と戯れることもそれほど危険ではない。
というのも、せいぜい毒蛇ははこの肉体を奪うくらいだからだ。
だが、私が話しているクンダリーニのエネルギーと戯れることは実に危険だ。
これ以上危険なものはない。どんな危険も、これ以上大きなものには成り得ない。
だが、何が危険だと思うかね?
これもまたある種の死だ。内なるエネルギーが目覚めたら、
いま現在のあなたは死ぬ。そしてまったく新しいひとりの人間が生まれるーーー
目覚める前のあなたとはまったく異なるひとりの人間が。
しかしながら、この恐れは人々が宗教的になるのを阻んでいる。
もし、この同じ恐れが種にあったら、樹にはなれないだろう。
この時種子は土の中に埋められ、水と肥料を施され、種子としては死んでいくという最大の危機に直面する。
卵が成熟しその殻が破れる時も、この同じ危険が卵に訪れる。
その時、卵としては鳥になるために死なねばならない。
同じように、私たちは卵がすべてだと考え、その中で腰を落ち着かせてしまっている。
このエネルギーが上昇すると、もはや、あなたはいなくなるだろう。
あなたが生き延びる道はない。
もし怖がったら、あなたの運命は、カビールが美しい詩句の中で描写しているようになってしまうだろう。
カビールが言ったことは美しい。
彼は言った。
「海深く潜りて、探し求めた者のみが、それを見つけた。
だが愚かにも我は海に留まり、探し続けていた」
誰かがカビールに、なぜあなたは留まったままでいたのかと尋ねると、
彼は「海深く潜りて探し求めた者のみが、それを見出した。だが愚かにも我は溺れることを恐れ、海辺に留まり続けていたのだ」
と言った。
それを見出したものはみな、深く入って探し求めることでそれを達成してきた。
絶対必要なのは、溺れる用意ができていることだ。もし一言で言えばーーー聞こえはよくないがーーーそれは死だ。
死ぬ用意ができていることだ。そして溺れることを恐れている者は、もちろん死にはしないだろう。
だが、卵のままいきながらえるだけだ。決してとりとなって羽ばたくことはない。
溺れることを恐れる者は、もちろん死にはしないだろうが、ただ種子のまま、生きながらえていくだけだ。
大木となり、その木陰で無数の旅人たちにくつろぎを与えることは、決してない。
けれども種子のまま生き続けることに、何の価値があるのか?
死んだほうがどれほどましだろう。
このように、危険性は大いにある。
昨日までの《私》という人間が終わってしまう危険性だ。
エネルギーが目覚めると、《私》というものが全面的に変容される。
新たなセンターが目覚め、準備ができているなら、古いものを手放す勇気を奮い立たせなくてはならない。
ところが古いものはあらゆる点で私たちをがんじがらめにし、あまりにも強く縛ってきた。
そのため、生命エネルギーはその頭をもたげられず、上昇できなくなってしまっている。
神へ至る旅は、確かに危険への旅だ。しかし生の花々や美しさは、危険な中でのみ花開く。
だからこの度に関しては、重要なことをいくつか伝えておかなくてはならない。
それほど重要でないことも少しあるが・・・。
まず第一に、明日の朝みんながここに集まり、生命力を目覚めさせる旅に出るが、
その旅には決して手を抜かずに臨んでほしい。これはお遊びのギャンブルではない。
すべてを賭けた者だけが勝利を得る。もしほんの少しでも出し惜しみしようものなら、あなたは敗けだ。
種子が種の一部を残し、あとの部分を樹にすることなど不可能だ。
種子が死ぬ時は、全面的に死ぬ。
もし助かろうとするなら、そっくりそのまま生き残る。
部分的な死というものはない。だからもし、あなたがたとえわずかでも自分を出し惜しんだら、すべての努力は無駄になる。
どうか完全に、全面的に自分を解き放ってほしい。ほんの少し尻込みしたばかりに、人は何度もすべてを取り逃してしまうからだ。
コロラド州で初めて金鉱が発見された時、アメリカ全土から人が殺到したそうだ。
1区画でも土地を買えば、そこで金塊が見つかるという噂が広まったのだ。
人々はコロラドの土地を買い始めた。ある億万長者が全財産を売り払って、コロラドの丘をひとつそっくり買い上げた。
その男は、金塊を採掘するための巨大な機械を何台も据え付けた。
普通の人たちが自分のちっぽけな土地で汗水流して金を採掘しているのに対して、
その男は高度な技術を用いてスケールの大きな山全体の採掘に賭けたのだ。
彼と雇い人たちは懸命に働いたが、
まったく金の出る形跡はなかった。
そのうち、男は動揺し始めた。この冒険に全財産を賭けていたからだ。
あまりに心配になり、家族に破産したことを告げた。
全財産を使い果たしたが、金塊はどこにもみつからなかったのだ。
その後彼は、採掘の機械と道具を全部添えて、丘を売りたいという新聞広告を出した。
彼の家族が言った。「でも、誰が買うというんです?あの山に黄金がないことや、あなたが何百万ものお金を無駄にしたことは、
もうみんなに知れ渡っているのですよ。買う気になるほうが変ですよ」。しかし彼は言った。
「ひょっとしたら、私のような者が他にもいるかもしれないじゃないか」
すると、本当に買い手が現われた。
億万長者は丘を買おうと言ってきた人に、それは無謀な冒険だと忠告してやろうかと思いかけた。
だがその丘が売れなかった時のことを考えると、そこまでの勇気はなかった。
そして、ついに丘は売られた。しかし、契約を取り交わすと彼は言った、
「あなたは本当に狂っているようだ。ご存知ないのかね。私はあの丘のせいで財産を失ったので、売りに出したんですぞ」。
相手は言った、「人生はどう転ぶかわかりませんよ。あなたが掘った所までは、黄金はなかったかもしれません。でも掘らなかった所にも黄金がないとは
言いきれないでしょう」。
それで億万長者は「それもそうだ」と頷いた。
そして信じ難い事が起こった。
時としてそういうことがあるものだが、前の持ち主が採掘を取りやめた地点から、わずか一フィート下で金鉱が見つかったのだ。
前の持ち主は丘全体が黄金に溢れていたと聞いて、倍も惨めな氣持ちになった。
彼は新しい持ち主を訪ね、彼の幸運にお祝いを述べた。
だが、その男は言った。
「それは運が良いという問題ではありません。あなたはできる限りのことをせずに、掘り当てる前に引き返してしまったのです。
もっと深く掘ってみるべきでしたね」
人生においても、こういったことは日常茶飯事だ。
私は神を探している人を大勢知っているーーーだが、彼らは最後まで進むこともなく、それにすべてを注ぎ込むこともなく、
それでいて失望してしまう。幾度も彼らはほんのわずかというところで聖なるものを取り逃す。
神まであとほんのわずかという所に来ていながら、引き返してしまうのだ。
ときどき私は、探求者があともう一歩という所で引き返す様子を、はっきりと目のあたりにすることがある。
だから、ほんのわずかたりとも骨惜しみせず、自分のすべてを賭けることを忘れないようにすることだ。
実際、神に捧げられるようなものが私たちにあるというのかね?
だが、こういうことにすら、私たちは出し惜しみをする。
いや、けちな人間だったらこんなことはしないだろう。
聖なるものの入り口には、出し惜しみする人間のいる場所などない。
すこではすべてを賭けなければならない。
それは捧げられるくらいの、たくさんのものを持っているかどうかということではない。
何を持っているかは問題ではない。
問題は自分のすべてを賭けたかどうかだ。
なぜなら自分のすべてを賭けるや否や、生命力が潜んでいる中枢に触れ、そこからそれが上へ向かい始めるからだ。
どうして全面的に賭けることを、私が強調するのかわかるかね?
事実、自分のすべてのエネルギーを瞑想へ注ぎ込んだ時、初めて貯蔵庫に蓄えられている貯蔵エネルギーが目覚め、
補充のために起き上がってくる必要性が生じる。その時初めて生命力が上昇し始める。それ以前ではない。
その時までは、クンダの中で、貯水池の中で眠ったままだ。
自分のエネルギーが、一滴でも残っていたら、そのエネルギーを使うことになる。
内側に蓄積している力が使われるのは、自分にエネルギーがまったくなくなった時だけだ。
その時初めて貯蔵庫から、その中枢からエネルギーを引き出す必要に迫られる。
それ以外はありえない。
たとえば、あなたが私から走れと言われ、走り始めたとしよう。
さらに全速力で走るように言われると、あなたはもっと速く走るだろう。
実際には全力で走っていない。が、あなたは自分が力一杯走っていると思う。
次の日、長距離走に参加しなければならないとする。
するとその時には、自分が前よりもっと早く走っており、速度が増していることがわかるだろう。
競争しているから全力で走るのだ。だが、これですら全力ではない。
その次の日誰かに拳銃で追いかけられたら、あなたはかつてないほどの速さで走るだろう。
そんなに速く走れるなんて思わなかったと、自分でも驚くだろう。
その時、あなたは命がけで走っている。
このエネルギーは、どこから生じているのだろう?
このエネルギーもまた、あなたの内側で眠っていた、あなた自身のエネルギーだ。
しかしこのエネルギーですら、瞑想には不充分だ。たとえ、あなたが殺し屋に追いかけられて
必死に走っている時でも、全力を出し切っているわけではない。
瞑想では、これより遥かに多大なるもの賭ける必要がある。
あなたは、あらん限りのものを賭けなければならない。
全エネルギーを振り絞るところまでいった瞬間、自分が何か違ったエネルギーとつながっていることに、内部に潜んでいたエネルギーが目覚め始めていることに気づくだろう。
間違いなく、あなたはこの特殊なエネルギーの目覚めを体験する。
それは、あたかも突然電流に触れたかのようなものだ。
あなたは自分の内側の下方、セックスセンターに横たわっていたエネルギーが上昇し始めるのを感じるだろう。このエネルギーは燃えさかる炎のように熱く、また朝のそよ風のように冷涼だ。
そしてちくちくする刺のようでありながらも、花のように柔らかい。
そして、そのエネルギーが上昇していく時、様々なことが起こるだろう。
エネルギーが上に向かっていく時には、決して途中で手を抜かないように。
完全に自分を手放しなさい。河に身をゆだね、流れに従い、ただ漂い流れていく人のように。
つまり「手放し(レットゴー)」がその鍵だ。
さて、次だ。最初に、自分のすべてを賭けなければならないが、全面的に賭けた結果として何かがあなたに起こる時、完全にその「何か」に自分を委ねなければならない。これが二番目だ。
その身を手放しの状態にしなさい。水面に浮かぶ人のように、ただ浮かんでいなさい。ただ浮かんでいること。
河の流れの赴くままに従う準備をしなくてはならない。
ある程度までは、自分でそれを引き起こさなければならないのは確かだ。
だが、そのエネルギーが目覚めたら、ただそれに自分自身を委ねなくてはならない。
自分を手放さなければならない。高次の力が入り込んできたのだ。
もはや、私たちが心配するところではない。ただ浮かんでいればいい。
そして三番目だが、このエネルギーの上昇とともに、様々なことが起こるだろう。
そうなっても怯えないでほしい。初めの体験は、怖いものだ。
子供は誕生の瞬間、母親の快適な子宮から出てくる時、恐怖に駆られる。
心理学者はそれを精神的外傷(トラウマ)、トラウマ体験と呼んでいる。
それは子供にとって決して忘れられない、一生つきまとう体験だ。
子供が持っている新しいものへの恐れは、誕生とともに始まる。
九ヶ月の間、母親の子宮の中で何の不安もなく生きてきたからだ。
いかなる心配もなかった。呼吸したり、食べたり、泣いたりなど、
自分のために何かをする必要などなかった。母親が何もかもしれくれたのだ。
子供は完全に安らぎ、くつろいでいた。
母親の子宮から出て来ると、まるっきり未知の世界に出くわす。
それが人生における最初の衝撃だ。
この、まさに人生への入り口の第一歩で、恐怖心に襲われる。
誰もが、新しいものを恐れるのはそのためだ。
誰もが古いものにしがみつき、新しいものを恐れる。
新しいものは、自分に大変な災難をもたらすということが、人生での最初の体験になる。
母親の子宮は、この世界より遥かによかった。
だから、日常生活で使うために考えだしたもののほとんどが、母親の子宮に倣って作られている。
クッションやソファー、車、居間などは、どれもが母親の子宮に倣って形つくられている。
人々はそういったものを子宮と同じくらい、快適で居心地のいいものに仕立てようとする。
しかし、あれほどのものものはできない。こうして、母親の子宮から出てきた時の最初の体験が、
新しいものへの恐れのひとつとなっている。
クンダリーニ、その原初のエネルギーの目覚めの体験は、子供の時の体験よりも遥かに強烈な、新しい体験だ。というのも、出産は単に肉体のレベルで起こるが、クンダリーニの目覚めは魂のレベルで起こるからだ。
それゆえ、全面的に新しい誕生となる。この体験をくぐり抜ける者をブラーミンと呼ぶのはこの理由による。
ブラーミンとは、二度生まれた者のことだ。だから彼のことをドゥヴィジャーー二度生まれた者、とも言うのだ。
そのエネルギーが目覚める時、第二の誕生が起こる。
この誕生において、あなたはその両者だーー
あなたは母親でもあり、子供でもある。
あなたはひとりでその両方なのだ。
それゆえ、二重の苦しみをくぐり抜けていかなくてはならないーー出産の痛みと、不安による精神的外傷を同時にだ。
その体験は恐怖心を惹き起こす可能性がある。
不安による精神的外傷の他に、母親と同じような出産の痛みもくぐり抜けていかねばならない。
そこではひとりで母親と子供の役を果たすからだ。
あなたは生まれるが、あなた以外の母親もなく、子供もない。
あなたは生まれると同時に生んでもいる。
自分の誕生が、自分を通して起こっている。
だから、その痛みは非常に激しい、強烈なものとなる可能性がある。
瞑想中に泣いたり、悲鳴を上げたり、叫んだりする人がいるので、
そういうことは止めさせるべきだという苦情が、私の所へくることがある。
だが、それは間違っている。泣き、悲鳴を上げ、叫ばせておくべきだ。
その人の内側で何が起こっているのかは、本人にしかわからない。
ある女性が、子供を産みながら泣き叫んでいた。
すると、まだ出産の経験がない女性がやって来て、
「どうして泣き叫んだり、悲鳴を上げたりしているの?子供が生まれようとしているのなら、
そのまま生まれさせてあげればいいのに、なぜ泣いたり呻いたりするの?」と言う。
こういう女性がそんなことを言うのだ。
陣痛の経験が一度もないからだ。
女性が出産の際に耐えしのぶ痛みは決して男性にはわからない。
それを思い浮かべることすらできないし、感じる術もない。
だが瞑想においては、男性も女性もどの人も、みな母親になっていくという意味で同じだ。
どの人も新たなものへと命を吹き込んでいく。だから痛みや苦しみを抑える必要はない。
倒れたり、地面を転げ廻ったり、悲鳴を上げたり、叫ぶ人がいても止める必要はない。
何が起ころうと、自由に起こるがままにさせておくべきだ。
解き放ちなさい。抑えないことだ。
どんなことが起こってもおかしくない。空中に浮いている感じがする人もいれば、
自分が広がっていくように感じる人もおり、また自分が小さくなっていくように感じる人もいるかもしれない。
いろいろと新しい体験をするだろう。それをひとつひとつ挙げる必要はないが、様々なことが起こるだろう。
どんな新しいことが起こってもおかしくはない。
そしてひとりひとりの体験は異なったものとなるだろう。
だから、心配したり恐れたりする必要はない。
クンダリーニ 眠れる大蛇
OSHO初期瞑想キャンプ講話「奇跡の探求《1》」より