OSHO ディスコース(講話)

OSHO 初期瞑想キャンプの講話「奇跡の探求《2》」より #3

Question :

ナルゴールの瞑想キャンプで、エネルギーは内側から湧き起こり聖なる高みに至るか、聖
なるもののエネルギーが降りてきて、内側に溶け合うかのどちらかだとおっしゃいました。

はじめの方がクンダリーニの上昇であり、ふたつめが聖なるものの恩寵だと。その後こう
もおっしゃいました。内側で眠っているエネルギーが、広大なる無限のエネルギーに出会
う時、ある爆発、サマーディが起こると。目覚めたクンダリーニと恩寵との合一は,サマ
ーディには絶対に欠かせないものなのでしょうか?
それとも、クンダリーニがサハスラーラへと進んでいくことは、
聖なる恩寵の出来事と同じようなものなのでしょうか?

Answer:

ただひとつのエネルギーだけでは、決して爆発は起こらない。爆発とは、ふたつのエネルギ
ーの合一だ。もし爆発がひとつのエネルギーで可能なら、とうの昔に起こっていただろう。
それはちょうど、マッチ箱を持っていて、その近くにマッチ棒を置くようなものだ。
それがずっとそう置かれたままならば、何の炎も現れないだろう。
そのふたつの間の距離がいくら近かろうとーー
五ミリだろうが二・五ミリだろうが同じだ。
何も起こりはしない。爆発には、ふたつのものの衝突が必要だ。
そうして初めて、あなたに火がつく。双方の内側には炎が隠されている。
しかしそれは、ふたつのうちの一方だけでは生み出せないものだ。

爆発は、ふたつのエネルギーの出会いによって起こる。
個々人の内側に眠っているエネルギーは、サハスラーラに上昇しなければならない。
そうして初めて合一が、爆発が可能になる。
サハスラーラ以外の所では、どんな合一も不可能だ。
それはちょうど、太陽が外で光り輝いているのに扉が閉まっているようなものだ。
光は扉の外にある。あなたが扉まで近づいていこうとも、
家の中であれば、太陽の光に出会うことはない。
ドアが開いてこそ、初めて太陽の光と出会うことができる。

だからクンダリーニの究極の点は、サハスラーラだ。
それこそ、恩寵が私たちを待っている扉だ。
聖なるものは、常にこの扉の所で待っている。
扉の所にいないのはあなたの方だ。
あなたは、どこかずっと中の方にひっこんでしまっている。
扉の所まで出て来なければならない。
その場所でこそ合一は起こり、爆発の形をとる。
それが爆発と呼ばれるのは、その時あなたが直ちにいなくなるからだ。
もはやあなたはいないだろう。
マッチ棒は、爆発で燃え尽きてしまうことだろう。
マッチ箱はまだあったとしてもだ。
マッチ棒であるあなたは、灰になり形なきものの中に溶け去る。

その出来事の中で、あなたはもはやいない。
あなたは失われる。あなたは壊れ、ばらばらになる。
あなたはもう存在しない。閉じられた扉の後ろにいたあなたはいなくなる。
あなたのものであったすべては失われる。
ただ扉の外で待っていた者だけが残り、あなたはただの一部になる。

これはあなたひとりでは、自分自身の力では起こり得ない。
この爆発のためには、あなたが無限なる宇宙エネルギーにまで昇りつめることが、
是非とも必要だ。
内側に眠っていたエネルギーを目覚めさせ、
宇宙エネルギーがひたすら待ちつづけているサハスラーラまで上昇させる必要がある。
クンダリーニの旅はあなたの眠っているセンターから始まり、
あなたが消え去る境界の地点で終わりを告げる。

 

 

そう、私たちが当たり前に思っていることだが、
肉体的なものには境界がある。
だがこれはあまり注目すべき境界ではない。
私の手が切り離されようと、私自身に大した違いはない。
私の足が切り離されたとしても、肉体はさほど苦しまないだろう。
私が依然として残っているからだ。
別の言葉で言うなら、こうした境界の中で変化があろうとも、
私は依然として残っている。
たとえ目や耳がなくても、私はまだ残っている。
だからあなたの本当の境界は、肉体における境界ではない。
あなたの本当の境界はサハスラーラ·センターだ。
それを越えては、あなたは消え去ってしまう。
たはもはや存在しない。
この境界の外に足を踏み入れるや否や、
あなたは消え去ってしまう。
留まることはできない。

クンダリーニは眠れるエネルギーだ。
その領域は、セックスセンターから頭頂のセンターにまで広がっている。
私たちが、体のあらゆる部分との自己同一化を絶つことができても、
顔や頭との同一化は絶てないと常に承知しているのはそのためだ。
「私とは、この手ではないかもしれない」と認識するのはたやすい。
だが顔を鏡で見て、「私とはこの顔のことではない」と想像するのは大変難しい。
顔や頭は限界の部分にあたる。だから人は、自分の知識以外なら何でも手放す用意があるのだ。
ソクラテスは満足というものについて話していた。
それは大いなる宝だと。
誰かが彼に、不満足なソクラテスでいるのと、
満たされた豚でいることのどちらがよいかと尋ねた。
ソクラテスは「私は満たされた豚であるよりも、
満足しないソクラテスである方がいい。満たされた豚は、自分の満足について何の知覚もないからだ。不満足なソクラテスは、少なくともその不満足について意識的でありえるからね」と答えた。
この男ソクラテスは、人はすべてを失う覚悟はあっても、知性を失う覚悟はないと言っているのだ。たとえそれが満たされることのない知性だとしても。

知性はまた、最後の七番目のチャクラであるサハスラーラ·センターに大変近い。正確に言
うと、人にはふたつの境目がある。ひとつはセックス·センターだ。この中枢の下に自然界は
始まる。セックスの中枢においては、木々や鳥、動物や私たちの間には何の違いもない。
この中枢はそれらには究極の極みだが、人間にとっては始まりの点、スタートラインだ。
セックス·センターを土台にすれば、私たちもまた動物にすぎない。私たちのもうひとつの極限は知性だ。

それは、その向こうが聖なるものとなる第二の境界線に近い。この地点を越えると、
私たちはもはや私たちではなく、聖なるものとなる。
これらは、私たちのふたつの境界地帯だ。
このふたつの間を私たちのエネルギーは動いている。

さて、私たちのすべてのエネルギーが眠り、横たわっている貯蔵庫はセックス·センターの
近くにある。そのため、人の思考、夢、活動の九十九%はこの貯蔵庫のあたりのエネルギーを
使っている。どんな文化が表現されようと、社会がどんな偽りの口実を持ち出そうと、人はそ
こで、そこだけでしか生きていない。

人はセックス·センターの付近で生きている。お金を稼ぐのもセックスのため、
家を建てるのもセックスのため、地位を築くのもセックスのためだ。
すべての根源にセックスを見出す。

理解した人々は、ふたつのゴールーーセックスと自由ーについて語っている。
ほかのふたつのゴールーー富と宗教ーーは手段にすぎない。
富はセックスのための手立てだ。だから時代がより性的になればなるほど、
富指向になるだろう。
時代が自由の探求へと向かえば向かうほど、
宗教への渇きはますます強まるだろう。
富が手段であるのと同じように、宗教はただの手段だ。
自由を熱望するならば宗教は手段となる。もし性的満足を願うなら、富が手段となる。
そう、ふたつのゴールとふたつの手段がある
それは、人にはふたつの境界があるからにほかならない。

もっとも興味深いのは、この両極の間のどこにも、
休んだり、立ち止まったりできる所はないということだ。
自由への何の欲望もなく、何らかの理由でセックスにも敵対してしまうと、
とんでもない窮地に立たされてしまうということは、多くの人々が気づいている。

彼らはセックス·センターからは離れ始めるが、
自由のセンターへも近付こうとはしない。そして疑いと不確実性の中に落ち入っていく。
それはあまりにも困難で、痛みに満ち、まさに地獄そのものだ。
彼らの生は内的混乱で一杯だ。

途中でとどまるのは適当ではないし、不自然だし、無意味だ。
それはまるで梯子を登っているのに、途中で立ち止まるようなものだ。
私たちはその人に言うだろう、
「登るか、降りるか、どちらかにしなさい。
梯子は家ではない。途中で留まるのは無意味だ」。
梯子の途中で立ち止まる者ほど、役に立たぬ者はいない。
なすべきことは梯子のてっぺんか、梯子の下でできる。

そう、背骨はいわば梯子だ。ひとつひとつの脊椎骨が、梯子の段に当たる。
クンダリーニは、もっとも低いセンターから動き始め、頂上の極みに至る。
もっとも高いセンターに至ると、爆発は避けられない。
もっとも低いセンターにとどまれば性的放出、射精というかたちをとるのは確実だ。
前者では爆発が必至であり、後者では性的放出が必至だ。
このふたつは、よく理解されねばならない。
もしクンダリーニが最下層のセンターにあれば、性的エネルギーの放出は避けられない。
最頂のセンターに至れば爆発は確実だ。
どちらも爆発だし、どちらも他者との関わりを要する。
性的放出における相手は必要だ、
たとえ想像上の相手だとしてもだ。
だがあなたのすべてのエネルギーが、ここで撒き散らされるわけではない。
なぜなら、これはあなたという存在の単なる始まりの点にすぎないからだ。
あなたは遥かにそれ以上のもの、その地点からずっと進化したものだ。
動物はこの地点で充分満たされており、
自由を求めることはない。
もし動物に教典が書ければ、努力に値するものとして、
ただふたつのゴールだけが書き込まれることだろう。
富とセックスだ。富は、動物の世界に適した形をとるだろう。
より肉付きがよく、より強い動物が、より富めるものとなるだろう。
彼はセックスの競争でほかの者を負かし、まわりに十匹のメスを集めるだろう。
これもまた富のひとつの形だ。体の余分な脂肪が彼の富だ。

人もまた、
いつでも<脂肪>に置き変えられる富を持っている。
王は千人もの妃を持てる。
男の富が、所有する妻の数で計られた時代があった。
貧しい男に、どうして四人の妻を持つ余裕などあろう。
現代の教育や預金残高といった基準は、ずいぶん後になって発展したものだ。
昔は、妻の数が富の唯一の基準だった。
そのため、古代の英雄たちの豊かさを褒め称えるために、
彼らの女性の数を誇張しなければならなかった。しかしながら、多くの場合偽りだったのだがーー。

たとえば、クリシュナの一万六千人もの王妃たち。
クリシュナの時代には、それ以外に彼の偉大さを表現する方法がなかった。
「もしクリシュナが偉大な男なら、彼は何人の妻をもっていたのだろうか?」。
私たちは一万六千人という、並外れた数を想像せざるを得なかった。
それは当時、強い印象を与えられる数だった。
今や人口爆発のため、そうではないだろうが、
当時そんなに多くの人はいなかった。
アフリカでは、今でもたった三人からなる共同体が存在する。
だから、もし彼らに四人の妻を持つ男について話したとしても、それは不可能な数字となるだろう。
彼らは三の数を越えるものなど、何も知らないからだ。
セックスにおいては、他者の存在が必要となる。
もしほかの人がいなければ、相手を想い浮かべることでも必要な効果在生む。
このために、神が存在するならば、たとえそれが想像においてでも、爆発は起こり得ると考えられてきた。
バクティーー献身の道ーーの長い伝統が発達したのはそのためだ。
その道においては、想像力が爆発への手段として使われてきた。

もし射精が想像で可能なら、同じようにサハスラーラでも、エネルギーの爆発が起こらないことがあろうか?
このことが、想像力を通して頭の中で神に出会う可能性を喚起した。
しかし、実際にはできなかった。射精が想像上でも可能なのは、実際の経験があるからだ。
だからこそ想像できる。だが、私たちは神に出会ったことがない。だから神は想像できない。
人は経験したものしか想像できない。
ある種の喜びを経験すると、いつも椅子に深く腰を下ろしては経験を思い出し、
その喜びを反芻できる。聾の人はどう頑張ろうとも、夢で音を聴くことはできない。
音のイメージすらできない。同じように、盲人は光を思い描けない。
しかし目を失った人であれば、いつでも光を夢見ることができる。
というより今では、夢の中でしか光を見ることができない。
何しろ、見るための目はもはやないからだ。そう、自分の経験したことなら思い描けても、
経験のないものは想像できない。
爆発は人々の経験ではない。だから想像力の働きようがない。
私たちは、実際に内側へと入って行く必要がある。
そうすれば、真の出来事が起こり得る。
サハスラーラ·チャクラはあなたの究極の領域であり、あなたが終わるところだ。
前にも言ったように、人は梯子だ。この文脈でのニーチェの言葉は、大変貴重だ。
彼は言った。「人は、ふたつの永遠に架かる橋だ」と。
ひとつの永遠ーそれは終わることのない自然のもの、
そしてもうひとつはーー神聖なるもの、それもまた果てしなく無限のものだ。
人はこのふたつに架かる、揺れ動いている橋だ。
人が落ち着いてはいられない境遇にあるのは、
そのためだ。前進するか後退する着こうとする者は、
みな後悔する。なぜなら、橋は家を持つための場所ではないからだ。
それしかない。
この橋の上に家を建てる場所などない。
その上に落ち着こうとする者は、みな後悔する。
なぜなら、橋は家を持つための場所ではないからだ。
それはただ、一方の端からもう一方へと渡るためだけのものだ。

ファテプール・シクリによると、
アクバル帝はすべての宗教のための寺院を建てようとした。
彼はひとつの宗教を夢見た、それは彼が「ディーン・エ・イッラー」、
すべての宗教の精髄と呼んだものだ。
そこで彼は、入り口のドアの上にイエス·キリストの言葉を刻んだ。
それにはこう書いてある。
「この世界はただの休憩のための場所、永遠なる家ではない。あなたはここで少しの間休むかもしれない。
しかし、永遠に止まることはできない。これは、ただ旅の休憩所だ。
野営地だ。夜に泊り、朝には再び旅立つような旅人のためのバンガローだ。
夜に休み、日の出に再び旅立つためだけに、
私たちはここに立ち止まる。それ以外に目的はない。ここにずっと留まりはしない」
人類とは、登らねばならない梯子だ。
だから常に人には緊張がある。人が緊張していると言うのは正しくない、
人そのものが緊張だと言った方がいい。
橋は絶えず緊張している。張り詰めているからこそ橋になるのだ。
それは、ふたつの究極の間に架かっている。人とは避け難い緊張だ。
それゆえ、人は決して静寂の中に安らぐことがない。
ただ動物のようになる時にだけほんのかすかな平安を経験する。
でなければ、聖なるものとなり、完全なる平和を手に入れるになると、緊張は緩む。
その時、人は何千もの生において親しんできた所、
地面へと立つために梯子を降りている。
緊張からくるすべての悩みから抜け出している。
だから人は、セックスやその他、アルコールやドラッグといったセックスに関わる経験、
一時的な無意識へと導くものの中に、緊張からの自由を求める。
しかしあなたは、ほんの束の間しかそこにはいられない。
たとえどう願おうとも、動物の状態に永久には留まれない。
質の悪い最低の人間でさえ、動物の状態にはほんの少ししか留まれない。

殺人犯は、動物になった時に殺人を犯す。
もう少し待っていれば、恐らくそんな事はできなかっただろう。
私たちが動物のようになるのは、人がジャンプして飛び上がるのにどこかしら似ている。
ほんの一瞬空中にいるが、地上に降りてくる。
だから最悪の人間でも、永遠に悪いわけではない。
そのままではいられない。彼がそうなるのは、暫くの間だけだ。
それ以外はあらゆる人と同じように普通だ。彼は一時的な慰めを得る。
何の緊張もないと知られる地上へと、舞い戻ったのだから。
動物に緊張が見られないのはこのためだ。その目を見てごらん、
何の緊張もない。動物は決して狂ったり、自殺したりしない。心臓病に苦しむこともない。
しかし、飼われている動物ーー
荷車を引いたりペットにされた動物には、こうしたすべてが起こる可能性が出てくる。
これでは本末転倒だ。橋を越えるよう人間が動物を引っ張ろうとすると、混乱が始まる。

野良犬なら、今この部屋に入ったとしても、
動きたいように動きまわるだろうが、
ペットの犬なら命じられた場所へ座るだろう。
さあこのペットの犬は人の世界に入り、動物界を後にしてしまった。
その犬はトラブルに陥るに決まっている。
その犬は、人の緊張の許に置かれてしまった動物だ。

だから終わることのない困窮の中にあり、部屋から出て行けと命令されるのを
ただひたすら待っている。

人は一時的にしか、動物の状態に陥ることができない。
だから、すべての喜びははかないと言う。
喜びを永遠にすることもできる。
だが人々は、束の間の喜びしかないところを探しまわる。
人々は動物の状態の中に幸せを探そうとするが、その幸せはほんのわずかしか続かない。
動物の状態に長くは留まれない。人類の前段階に戻るのは難しい。
もし昨日に帰りたければ、目を閉じて想い浮かべられる。
ーーでも、一体どのくらいというのか?
目を開ければ、自分がどこにいるかは一目瞭然だ。

あなたは戻れない。一瞬ぐらいなら、無理やり戻れたとしても、その後にあなたはいつも後悔する。
だからすべての一時的な喜びは、その成り行きからしてみても、後悔をもたらす。
自分の努力が無駄になったという感覚と共に、取り残される。
だが数日後には再び忘れ、同じ間違いに再び落ち込む。
束の間の喜びは、動物のレベルにおいて得られる。
だが永遠の喜びは神聖なるものに溶け込んだ時にしか得られない。
この旅は、あなた自身の実存の内に完成されなければならない。
橋のこちら側からあちら側へと、渡らなくてはならない。
そうして初めて第二の出来事が起こる。

だから私は、セックスとサマーディを同じと見なしている。
これには理由がある。
実際、等しく価値あるものはこのふたつだけだ。

セックスで私たちは片方の袂、
つまり自然とひとつになる梯子のもっとも低い段におり、
サマーディにおいては橋のもう片方の袂、
つまり神聖なるものとひとつとなる梯子の最上段にいる。
どちらも合一であり、どちらもそれ独自の方法による爆発だ。
どちらの場合にも、ある意味であなたは自分自身を失う。
セックスではほんの一瞬しか自分自身を失わないが、サマーディにおいては永遠だ。
どちらの場合にも、あなたは存在しなくなる。
前者はごく一時的には爆発しても、その後あなたはまたもや結晶化する。
行ってしまった所が、後退できないほどの低い状態だったからだ。
しかし一度神聖なるものに溶け込んでしまえば、あなたは再結晶化できない。

この逆行は、人が動物の状態に戻れないのと同じほどに不可能だ。
それは絶対に不可能だ。それはちょうど、大人に産着を着させようとするようなものだ。
絶対なるものとひとつになると、<個人>には逆行できない。
今や個人としての自己はあまりに狭苦しく、取るに足りない場所となり、
あなたはもうそこには入れない。
もはやどうやってその中にいられるのか、想像すらできない。
個人としての実在はここで終わる。
爆発には、両方が必要だ。
あなたの内なる旅は、サハスラーラの地点まで達しなければならない、
恩寵と出会うためにーー

なぜこのセンターが「サハスラーラ」と呼ばれるかについては説明が要るだろう。
こうした名前は偶然についたものではない。
言葉はいつも偶然に、また絶え間なく使われるうちに発展するものだが。
他のどんな呼び名でも簡単に代用はきいただろう。
世界には何千もの言語があり、ドアを意味する言葉は何千とあり、
同じ意味合いにちがいない。
だが事が偶然ではない場合には、すべての言語に類似性が起こる。

「ドア」または「ドワール」とは、それを通って出たり入ったりするもの、
という意味を伝える。すべての言語において、「ドア」として使われている言葉は、
この意味を伝えている。
これは経験の一部であり、偶然のはからいではないからだ。
そこを通って出たり入ったりできる空間という概念は、「ドア」という言葉によって伝えられる。

「サハスラーラ」という言葉も経験から作られたもので、
偶然のものではない。
その経験を得るや否や、突然あなたの中で千の蕾が花開くように感じるだろう。
千というのはかぎりないという意味だが、
それを花になぞらえるのは、その経験が開花のようだからだ。
内側の蕾のように閉じていた何かが開いた。
花という言葉は花開く、開花という文脈で使われるものだ。
しかしながら、花が開くとは言っても、
ひとつふたつどころではないーー
数知れぬほど多くのことが花開くのだ。

そう、この経験を「千の花びらを持つ蓮の開花」と呼ぶのは自然だ。
朝の光の中に咲いている蓮を見たことがあるかね?
注意深く見てみるがいい。
蓮の池に行って、蓮の蕾がその花びらを開いていく様子を、
静かに観察してみなさい。
そうすれば、千の花びらの蓮がこのように頭の中で花開いたらどう感じるかが、
思い浮かべられるだろう。
そういう経験を、どうにか想像できるだろう。

もうひとつの素晴らしい経験がある、セックスだ。セックスの経験に深く入って行っても、
またこの開花を経験するが、これはとてもはかない経験だ。
内なる何かが花開くのだが、それはほとんどすぐにまた、閉じてしまうものだ。

しかしこのふたつの経験には違いがある。
セックスの体験では、花は下へ向かってぶら下がっているように感じるだろう。
ところがサマーディでは、花びらは上に向かって開花するように感じられる。
この区別は、両方の経験を通り抜けて初めて識別可能となる。
下へ向かって咲く花があなたを低い領域に繋げ、
上に向かって咲く花が高い領域へと繋ぐのは当然だ。
事実この開花は、あなたを別の領域に対して感じやすくさせる開口部だ。
それは開けることのできるドア、爆発が起こるように、
何かがそこを通ってあなたの中に入って行くためのドアだ。

この両方は必要とされている。
あなたはサハスラーラへ旅して登っていくだろう。
そこには誰かが、いつもあなたを待っている。
あなたが達すれば、誰かがやって来るだろうと言うのは正しくない。
その誰かはすでにそこで、あなたに事が起こるのを待っている。

 

OSHO
初期瞑想キャンプの講話「奇跡の探求《2》」より

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