しかしOSHOは言った「ネパール全土が私の色に染まるだろう。」
36年経ってもなお、Dwarika瞑想キャンプの記憶は私の頭の中で色褪せることはない。私は毎日、日の出と夕暮れ砂浜での瞑想をとても楽しんだ。一番素晴らしかったのは午後に行われたOSHOとのサイレンス・ディスコースの時間だった。
OSHOは「言葉というのはコミュニケーション手段としてあまり適切なものではない。」と言っていた。人々は同じ言葉から違う意味を引き出す。だから同じ真理に対してこんなに多くもの解釈があるのだ。サイレンスが真実を伝達するには最も相応しい手段である。ハートからハートの交感はサイレンスを通してのみ可能だ。」と話していた。
サイレンス・ディスコースは毎日午後3時から4時の間に行われ、サイレンス・ディスコースに参加する前には必ずシャワーを浴びるようにとOSHOは指示をしていた。OSHOはいつもちょうど3時に外に出てきて椅子に座り、みんなOSHOの神聖な存在と共に深く静寂へと入っていった。OSHOは真っ白のルンギとショールを身に着けていた。彼の存在はマインドに静けさをもたらし、誰もがとても簡単にサイレンスへと深く入っていくことが出来た。それは深いトランス状態のようで、ヨガでは睡眠と覚醒の間のこの状態を“ヨガ・ニドラ”と呼んでいる。
アチャリヤ・ラジニーシ(OSHO)を批判する人々は彼は催眠術を使っているとOSHOを非難したが、催眠術は話すことをしなければかけることはできない。それは魔法のような彼のプレゼンス(存在)と悟りがみんなを深いトランスに導いたのだ。
私はキャンプの参加者の中で一番若かった。OSHOと個人的に逢うためのアポイントを取ろうという勇気がなかったが、勇気を振り絞ってその日古参のサニヤシンにOSHOはいまどこにいるのかを尋ねた。OSHOの居場所がわかったので、次の朝早く6時にアラビア海の浜辺にある彼が滞在しているゲストハウスに行った。彼が滞在している部屋には椅子とベッド以外何もなかった。大きな窓が付いていて、そこから広大なアラビア海を眺めることができ外には庭もあった。OSHOはバスルームに居たので、私は部屋で彼がバスルームから出てくるのを待っていた。ちょうど海の向こう側の地平線から太陽が顔を出すところだった。しばらくすると真っ白のルンギを着たOSHOが部屋に入ってきた。彼は体格がよかった。長い黒い髭をはやし、おでこは輝き、鋭く透き通ったあの二つの眼がそこにあった。
私はアポイントメントを取らずにその部屋にいたが、OSHOは何も言わなかった。むしろ優しげに「どこから来たんだね?」と私に尋ねた。私はとても緊張していたので、素早くひと呼吸で「私はカトマンドゥー出身で、工学技術を勉強しています。以前あなたに何通かパタナから手紙を出しました。」と答えた。OSHOはしばらく私の目を見て、「ああ君かぁ!全部覚えているよ。」とタオルで体を拭きながら言った。OSHOは椅子に座り、私は大理石の床に座った。彼は私にベッドに座るように勧めたが、OSHOのベッドに座るのはさすがに躊躇した。それでもOSHOは私にベッドに座るようにと言ったので、私はそれに従った。
それから、私は自分の抱えてる問題をOSHOに投げかけた。彼は辛抱強く私の質問に耳を傾けてくれた。その時キャンプの運営者たちが部屋に入ってきた。彼らは前もってアポイントメントを取っていないのに何故私がそこにいるのか疑問に思っていた。
「みてごらんなさい。私のメッセージは遠くネパールまで知れ渡った。この若者はネパールからこのキャンプに参加しに来たのだ。」
キャンプ運営者のみんなが驚いているのをみながら、OSHOは称賛の言葉とともに私を彼らに紹介してくれた。
私はOSHOに自分自身が過去にしてきた修行方法や宗教的な生活、それにブラマチャリヤのことなどを話した。
「君はギータ出版社の本を十分すぎるほど読んできた。」
(ギータ出版社は伝統的なヒンドゥー教の宗教的な書物を安い値段でインド中に出版している。)
OSHOは私に最近出版された彼の「セックスから超意識へ」を読むようにと忠告してくれた。
「いま外国から招待されていて、3月にナイロビに行くことになるかもしれない。」
とOSHOは言った。
無邪気にも私はOSHOに「アチャリヤ、外国に行かないでください。」と言った。
「何故かね?」と彼は私に訊ねた。
「貴方の事は外国人のあいだに簡単に知れ渡るでしょう。沢山の人々が貴方を取り巻くようになったら、こうやって貴方に逢うことは私たちのような素朴な連中にとって非常に難しくなってしまうでしょうから。」と私は答えた。
そうするとOSHOは「聞いたかね?この若者はよくわかってる。彼が言ったようなことが近いうちに実際に起るだろう。」と言った。
OSHOに褒められて、私の中に自信と勇気が沸いてきた。その勢いで私は
「アチャリヤ、3月にはナイロビではなくてカトマンドゥーに来てください。」と言った。
「カトマンドゥー滞在の準備をすることはできるのかね?」
とOSHOは言った。
私は自分自身を買いかぶり、「両親は政治家の家柄で、ネパールでは顔がききます。だから大丈夫です。」と言ってしまった。
そうするとOSHOは「わかった。ではどこかホテルではなく君の家に滞在させてもらうことにするかな。」と言った。
その当時私の両親はカトマンドゥーのプタリサダクの貸家に住んでいた。
快適とは言えない自分の家を思い出すと恥ずかしくなった。
だからOSHOに代わりのアイデアを提案することにした。「私の家は貴方が滞在するのに相応しくないと思います。有名なニューロードにあるパラスホテルを用意するので、そちらに泊まってください。」
そうするとOSHOは「ホテルに滞在しようとは思わない。私は快適さが必要なわけではなく愛が必要なのだ。君の瞳から溢れ出ている涙。その愛だけで私には十分だよ。」と言った。
「カトマンドゥーの人々は瞑想にはあまり興味がないかもしれませんが、貴方の話を聴いたり、貴方にインタビューをしたがるでしょう。」と私はコメントした。
しかしOSHOはその意見に同意せず、「君はネパールの宗教性のポテンシャル(可能性)をいまだ知らない。もし君が本当に私を助けてくれるなら(もし君を通して私がワークするのを許してくれるなら)、いつかネパール全土が私の色に染まるだろう。」と言った。