ジャラール・ウッディーン・ルーミー(1207年9月30日 – 1273年12月17日)
ペルシア語: جلال‌الدین محمد رومی‎、Mawlānā Jalāl ad-Dīn Muḥammad Balkhī-e-Rūmī
トルコ語: Mevlânâ Celaleddin-i Rumi

1207年、中央アジアのヴァフシュに生まれる。
一家は、ルーミーが5歳の時に大都市サマルカンドに移る。
彼の父、バハー・アッディーンは説教師であり、また学者でもあった。
当時の中央アジアは、ホラズム・シャー朝、カラ・ハーン朝、ゴール朝などの高層状態にあり、正常は安定していなかった。サマルカンドも、カラ・ハーン朝からホラズム・シャー朝の支配下に移った。
一家がサマルカンドに移り住んでから5〜6年後に、彼らは故郷の中央アジアを去り、西方へと放浪の旅に出る。なぜ、ハバー・アッディーンがまだ幼いルーミーを連れて、また多くの弟子たちをも引き連れて、目的地も定めない旅に出たのか、ホラズム・シャー朝の宮廷の政争に巻き込まれたのか、あるいは迫り来るチンギスカーン率いるモンゴル軍の襲来を予期したのか、理由は定かではない。

彼らが最初に向かったのは、アッバース朝カリフの坐す、イスラーム世界の中心であるバグダッドであった。そこからさらに、メッカに巡礼を行い、シリアへと戻り、1220年頃に、ルーム・セルジュク朝の支配下にあったアナトリアの小都市ラーレンデ(現トルコのカラマン)に腰を落ち着ける。ルーミーが17歳でゴウハル・ハートゥーンと結婚し、2人の子供をもうけたのはこの町である。また、ルーミーの母であるモーネメ・ハートゥーンが亡くなったのもこの町である。

バハー・アッディーンは、この町の支配者が彼のために建てた神学校で教鞭をとるが、1228年、ルーム・セジュク朝の首都であるコンヤに、スルタン・アラー・アッディーン・カイクバードが新しく建てた神学校に招聘され、家族はコンヤに移住する。しかし、それから2年後、長い放浪の旅に疲れたのか、ハバー・アッディーンは死去する。この時、ルーミーは24歳であったが、すでにひとかどの学者であったので、父の遺志もありそのあとを継ぎ、神学校で教えることになる。

しかしその1年後に、中央アジアから、バハー・アッディーンの教え子であったブルハーン・アッディーンがコンヤにやってきて、ルーミーに助言を与える。ルーミーはその助言によって、シリアでさらに3年間、学問の磨きをかけることになる。

シリアから戻ってきたルーミーに、ブルハーン・アッディーンは断食や、隠遁(40日の間、部屋に閉じこもって瞑想すること)などの修行を課して、内面の道を磨かせたのち、ルーミーを再びコンヤの神学校の教壇に立たせた。このままいけばルーミーは、平凡な学者として生涯を終わっていたかもしれない。

しかし、彼を禁欲的な学者から、陶酔的な神秘主義詩人へと変える運命的な出来事が起こる。それは、放浪の托鉢僧、シャムス・タブリージーとの運命的な出会いである。

ルーミーを熱狂させた謎の人、シャムスの生年は知られていない。しかし、彼がコンヤにやって来てルーミーと出会った日は、記念すべき日として後世に伝えられることになった。それは1224年11月29日のことであった。この日、コンヤに着いたシャムスは、米商人の宿に旅装を解き、その隣にあった小さな店で休んでいる折りに、ちょうどルーミーが講義を終えて、学生たちを後ろに引き連れ、馬に乗って通りかかったところに出会ったという。

シャムス自身の伝えるところによると、最初にシャムスがルーミーに放った言葉は、次のような質問であった。

「アブー・ヤジード(ビスターミー)が、預言者ムハンマドの模範に従う必要がなかったのはどうしてか。なぜ彼は、〔預言者ムハンマドの規範に従って〕『汝(神)に栄光あれ』とか、『私は汝を崇拝する』といわなかったのか」

また、一説によると、質問は端的に、

「アブー・ヤジード・ビスターミーと預言者ムハンマドとはどちらが偉いか」

だったともいう、ルーミーはこの質問に含まれている含蓄を理解し、酔いしれた。

ビスターミー(874年)は初期の神秘主義者で。神と合一した陶酔の境地で発した有名な言葉、「我に栄光あれ。我を崇拝せよ」によって知られている。この言葉は、文字通り解釈すれば、ビスターミーが自分は神であると言っていることになるが、後の神秘主義者たちの解釈では、この言葉を発した時、ビスターミーの「自我」は消滅していて、語っているのは神自身なのであった。

ルーミーの答えを聞いたシャムスは、気を失って倒れてしまい、ルーミーは馬上から降りてひざまづきシャムスを起こし、2人はかたく抱擁する。(一説では、対話中に気を失って倒れたのはルーミーのほうだという)ルーミーはシャムスを家に連れて帰った。これ以後、ルーミーは学校での講義も忘れ、シャムスと2人だけで何週間、何ヶ月と部屋に引きこもってしまう。

この時、シャムスは60歳を超えていたと言われる。ルーミーは、この老人のどこに心を奪われたのであろうか。ルーミーの多くの門人たちにも、師のシャムスに対する熱狂ぶりは理解出来ないことであった。ルーミーにとってシャムスは、生涯の心の友、神秘道へと導いてくれる完全なる師、自己の分身、いやそれ以上の存在であった。

名のシャムスとはアラビア語で太陽を意味する。ルーミーにとっては文字通り、シャムスは神の象徴である太陽となった。学校での講義、モスクでの説教に代わってルーミーはシャムスへの愛を陶酔的な抒情詩に歌い上げる。そして歓喜のあまり。くるくると回りながら踊り始める。踊りながら詩作する。以後、ルーミーは詩作とダンスの生涯を送ることになる。

しかし、シャムスと暮らす喜びの日々は長く続かなかった。約1年後、シャムスは忽然とコンヤから姿を消してしまう。一説には、シャムスがコンヤを離れたのは、ルーミーの門弟たちの妬みのためだともいう。あるいはシャムスは、ルーミーが門弟を選ぶか、自分を選ぶかを試すために、ルーミーの元を離れたのだともいう。

ルーミーは狂気のようになってシャムスを探し、ついにシリアにシャムスがいることを知り、息子のスルタン・ワラドをシリアに送った。スルタン・ワラドは無事シャムスをコンヤへと連れて帰り、ルーミーにとっては、再び喜びの日が始まる。しかし一年後、再びシャムスは姿を消す。そして今度は、ルーミーの懸命の捜索にもかかわらず、シャムスは二度と姿を見せることは無かった。一説によれば、シャムスはルーミーの妬み深い門弟たちによってひそかに暗殺され、遺体は井戸の中に投げ込まれたのだという。

現在のコンヤには、ルーミー廟のほど近くにシャムスの廟がある。ルーミーの墓に詣でる人は、その前にまずシャムスの墓に参ってルーミーの師に敬意を表さなければならないといわれている。

 

出典:「イスラームを知る四つの扉」(竹下政孝 著/ぷねうま舎)

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