OSHO ディスコース(講話)

Osho恩寵とシャクティパットの違いについて語る。奇跡の探求《2》―初期瞑想キャンプの講話より

Question

ナルゴールの瞑想キャンプにおいて、
シャクティパットーーー聖なるエネルギーの伝達ーーーー
の意味は、神聖なるエネルギーが瞑想者に降り立つことだとおっしゃいましたが、
後にシャクティパットと恩寵には違いがあるともおっしゃいました。
このふたつは矛盾しているように思いますが、どうかご説明ください。

Answer

その両者はわずかに違ってはいるものの、少し似たところもある。
実際それぞれの領域は、お互いに入り込んでいる。
シャクティパットとは聖なるエネルギーだ。
事実、エネルギーには聖なるエネルギー以外のものなどない。
しかしシャクティパットにおいては、人が媒体として働く。
究極的には人もまた聖なるものの一部だが、最初の段階では、個人が媒体として機能する。

それは、空に走る稲妻の閃光と家庭の電灯のようなものだ。
それらは同じだ。しかし家の中に灯っている光は、媒体を通してのものであり、
人の手がその背後にあることは明らかだ。
雷雨の時の電光は同じ聖なるエネルギーだが、人によるものではない。
仮に人が絶滅しようと稲妻は空を切り光るが、もはや電灯が点くことはない。
シャクティパットが人を媒体とする電灯のようなものだとすれば、恩寵は天空の稲妻のようなものだ。
それは媒体なしに訪れる。

このエネルギーのレベルに達し、聖なるものに通じている人は、媒体として働くことが出来る。
そういう人は乗り物として、あなたがたよりもシャクティパットに向いているからだ。
そういう人は、エネルギーとその働きに馴染んでいる。
彼を通した方が、エネルギーはより速くあなたの中にはいっていくだろう。
あなたはまったく何も知らなければ、成長もしていない。
この人は、よく成熟した乗り物だ。
エネルギーは彼を通してあなたの中に入っていく。彼が媒体として適しているほど、
エネルギーは簡単に入り込む。

第二にあなたは、その人という狭い通路を通してエネルギーを受け取るわけだが、
それはあなたの許容量次第だ。統制された家庭の電灯なら、その下に腰を下ろし読書もできる。
しかし空の雷光のもとでは不可能だ。それはどんな統制もきかないからだ。
だから突然、偶然にも誰かに恩寵を授かるような状態が起こったり、媒体なしに
シャクティパットが起こり得る突然の状況がつくられたりすると、その人がおかしくなったり、発狂してしまうような
ありとあらゆる可能性がある。降り立つエネルギーのあまりの広大さに比べ、その人の許容量はあまりに小さく、その人が完全に粉砕されることもあり得る。
そうして、これまで味わったことのない未知なる喜びの体験が、苦痛に満ちた耐え難いものとなる。

それはまるで暗闇の中に何年もいた人が突然、白昼の陽光の中にさらされるようなものだ。
闇はさらに深まり、その人は太陽の光を見ることなど、とうていできない。
その目は暗闇を見るのに慣れてきたため、まばゆい光に耐えきれず閉じてしまうだろう。

時として、無限の恩寵のエネルギーが、知らぬ間に降り立つといった状況が起こり得る。
しかしその効果は、あなたに準備ができていない場合には、致命的で破壊的なものとなる。
不意打ちをくらい、その出来事が災いともなり得る。
そう、恩寵は有害で、破壊的なものになることもある。

シャクティパットの場合、事故の可能性は非常に少なく、ほとんどないに等しい。
それは媒体として、乗り物として機能している人物がいるからだ。
媒体を通り抜けると、エネルギーは穏やかで和らいだものになる。
媒体はエネルギーの強度を調節でき、あなたに持ちこたえられるだけのエネルギーしか流さない。
しかし覚えておくようにーーーー
媒体はただの乗り物であり、エネルギーの源泉ではない。

だからもしある人が、自分はシャクティパットを行っている、エネルギーの伝達をしていると言うとしたら、
その人は間違っている。それはあたかも、電球が自分は光の提供者だと断言しているようなものだ。
光が常に電球を通して放射されるため、電球は自分が光の創造者だと勘違いしたのだろう。これは間違いだ。
それは光源ではなく、単にそれが現れ出るための媒体にすぎない。
だからシャクティパットを行えるという人がいたら、その人はその電球と同じ幻想の中にある。

伝達されるエネルギーは、どんな場合であれ、聖なるエネルギーだ。
ただし誰かが媒体になると、シャクティパットと呼ばれる。
エネルギーは、媒体もなく突然降りてきた場合に、有害なものになり得る。
だがもし人が充分に時を待ち、限りなき忍耐を持って瞑想するならば、
シャクティパットが恩寵の形をとって起こることもあり得る。
そこには媒体も存在しなければ、災難が起こることもない。
そのひたすらに待っていること、限りなき忍耐、揺るぎない献身、不朽の決意が
神を受け容れるための能力を育む。
それなればどんな災いも起こらない。
だから、事はどちらの方法でも起こり得るーーー媒体があろうとなかろうと。
けれども媒体がいなければ、シャクティパットではなく、彼方からの恩寵と感じることだろう。

両者には、違いもあれば共通性もある。恩寵が起こり得るのなら、私はそちらの方を支持する。
できるかぎり、媒体はいるべきではない。だがこれは、ある特定の場合に可能であり、ある場合には不可能だ。
だから、終わりなき生を彷徨している後者の人々に代わり、誰かが媒体となれば、聖なるエネルギーをその人たちへもたらすことができる。
とは言っても、媒体となれるのは、もはや個人的なエゴがないような人だけだ。
そうなれば、そういう人は媒体となっても導師(グル)にはならないため、つまり導師になるような人格がどこにも残っていないため、
危険はほとんどなくなる。この違いをよく理解しておきなさい。

導師になる人は、あなたとの関わりにおいて導師になり、
媒体になる人は、普遍的存在との関わりにおいてそうなる。
あなたとは何の関係もない。この違いが分かるかね?
あなたとの関わりにおいて生じたエゴは、どのような形であれ、存在できない。
だから導師にならない者しか本物の導師ではない。
サットグル、完全なるマスターの定義とは、導師にならない者のことだ。
これは導師だと自称する人は、皆導師としての資質に欠けているということだ。
導師だと主張すること以上の失格理由はない。
つまりそれは、エゴがあることを示しているからだ。
そしてそれは危険だ。

もし人が突然空の状態、エゴが完全に消えた状態に至ると、その人は媒体となれる。
その時にはシャクティパットはその人の近くで、その人の臨在のもとに起こる可能性があり、しかもどんな危険もない。
あなたにとっても、エネルギーが流れる通路となる媒体にも危険はない。
それでも、基本的に私は恩寵を支持する。エゴが死に、人がもはや個人ではなくなり、この条件が満たされる時、
シャクティパットはほとんど恩寵と同じになる。

もしその人が、この状態について自意識過剰になっていなければ、シャクティパットは非常に恩寵に近いものとなる。
そうしてその人の側にいるだけで、事が起こることがあり得る。こういう人は、ひとりの人間のように思えても、実際は神聖なるものとひとつになっている人だ。ーーーこう言った方がいいだろう、彼はあなたへと差し出された、聖なる手だ。彼はあなたの近くにいる。
もはやそういう人は、まったくの道具にすぎない。だがその人が一人称で、そういう意識の状態で話したとしても、人々は彼を誤解しがちだ。
そういう人が《私》と言えば、それは《至高なる自己》を意味している。だが、私たちが彼の言葉を理解するのは難しい。

だから、クリシュナがアルジュナにこう言えたのだ、
「すべてを捨て、私に明け渡しなさい」と。
私たちは何千年にもわたって、「私に明け渡せ」などと言うこの人は一体何者かと、深く考えさせられることだろう。
その言葉はエゴの存在を裏付けるものであるかのようだ。だがこの男にはもはやえごがないからこそ、こんなふうに言えたのだ。
今や彼の《我》とは、差しのべられたる誰かの手であり、彼の背後で「我に明け渡せーー唯一者に」と言っている者こそ、その誰かだ。
この言葉ーーー唯一者ーーーは極めて貴重だ。クリシュナは言う。「我に明け渡せーーー唯一者に」。
《私》とは決してひとりだけではないーーそれは多勢だ。
クリシュナは《我》が唯一である境地から話している。
そしてこれはは、エゴの言葉ではない。

しかし私たちは、エゴの言葉しか理解しない。
だから、クリシュナがアルジュナに自分に明け渡せといったことで、自己中心的な声明をしたように思う。
だがこれは誤解だ。私たちは、常にふた通りの見方でものを見る。ひとつはわたしたち自身の視点ーーー
それによって、いつも決まって判断を惑わされている視点から。
そしてもうひとつは聖なる視点、迷うということすらあり得ない視点を通してだ。
だから出来事が起こるのは、個人的エゴがでしゃばることのない、クリシュナのような人物を通してだ。

両方の出来事、シャクティパットと恩寵は、表面上は実に対照的だが、中心においてはお互いにとても近いものだ。
私はシャクティパットと恩寵の区別が困難な、そのあたりを支持する。有用で価値あるものはそれ以外にはない。

和尚「奇跡の探求〈2〉―和尚初期瞑想キャンプの講話」より引用

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