OSHO ディスコース(講話)

OSHO 初期瞑想キャンプの講話「奇跡の探求《1》」より

森羅万象は、エネルギーが膨張したものにほかならない。
そして生命は、それが結晶したものだ。
物質のように見えるものも、石のようにめるものもエネルギーだ。
生命のように見えるものも、思考のように思われるものも、
意識のように感じられるものも、エネルギーが変容したものだ。

全宇宙は ーー 海の波、この森の松の木々、砂粒、大空の星々、
そして私たちの内側に在るものーーすべて同一のエネルギーが無数の姿、
形をとって現われたものだ。
どこからどこまでが自分なのか、それをはっきりさせるのは困難だ。
同じように、どこまでが自分の体なのか言うことも難しい。
体は通常考えられているように、
肉体だけにとどまるものではない。

もし一億マイル離れている太陽が冷えてしまったら、
私たちは即座に凍死してしまうだろう。
これはつまり、太陽がこれまでずっとこの生命体の中に息づいてきたものであり、
私たちの熱こそが、私たちの体の熱そのものなのだ。

私たちは蠢く大気の海に包まれており、
そこから生命エネルギー、つまり生気を摂り入れている。
もし、これを摂取できなくなったら、即座に私たちは死ぬ。
どこまでを体といえるのだろうか?
深く調べていくと、宇宙全体が自分の体であることがわかる。
私たちの体は無限で果てしがない。

もし正しく探求すれば、生命の中心があらゆるところにあり、
あらゆる方向へと拡がり続けていることがわかるだろう。
だがそれを知り体験するためには、私たち自身があふれんばかりの、
生き生きとしたエネルギーそのものになることが必要不可欠だ。

私の言う瞑想とは、表現を変えれば内側で滞ってしまっているエネルギーの流れを、
様々な方法で解き放つことにほかならない。
だから、瞑想に入るとその潜んでいたエネルギーがすさまじい勢いで目覚め、
外側にあるエネルギーと繋がる可能性がある。

ところがこのつながりが出来るや否や、
私たちは宙に舞う木の葉のようになる。
その時私たちの個別意識は消え、無限なるものとひとつになる。

無限なるものとひとつになると、どうなるのだろう?
今まで人々は、あらゆる方法でそれを表現しようと試みてきた。
が、それができたためしはない。

カビールは言う、
「私は神を探し求めた。懸命に探し求めた。だが探し求めていくなかで、私自身は消えた。
確かに、神は見出された。
だがそれはひとえに「私」というものが、もはや存在していなかったからだ。
今や、見出したものについて誰が語れよう。
どうやってそれを語れよう」

カビールは、初めてこの体験を語った時の言葉を、後で変更した。
初めて神を体験した時彼は、
「まるでしずくが大海の中へ入っていったかのようだ」と言った。
彼自身の言葉はこうだ。

探し 探し求めて おお我が輩よ
カビールは 消えてしまった
一滴のしずくは 大海へと溶け去った
いかにして 再びしずくを見つけ出すなどできようか

探求しているうちに、カビール自身がいなくなってしまった。
しずくが大海の中へと溶けこんでしまったのに、
それをもう一度取り出すことなどできるだろうか。
ところがカビールは、それを後に変更した。
そしてこの変更には重大な意義がある。
後になって彼は、「私が以前語ったことは間違いだった。あの表現は誤りだった。
あれはしずくが海へ入っていったのではない。海のほうがしずくの中へ流れ込んだのだ」と言った。

しずくが大海へ入ったとすれば、再びしずくを呼び戻せる可能性もあるが、
大海がしずくへ流入したとなると、再び見つけ出すのは遥かに難しくなる。
しずくが大海へ入っていったのなら、そのしずくは、その時の出来事について何かしら語れることだろう。だが海のほうがしずくの中へ流入したとなると、それはとても困難になる。
そのため、彼は後にこう言った。

探し 探し求めて 我が輩よ
カビールは 消えてしまった
大海は しずくの中へと溶け去った
それなのに どうして再び しずくを見つけ出すなどできようか

しずくが海へ溶け込んだといった前の表現は、間違いだった。
完全に振動するエネルギーそのものになってしまうと、
私たちのほうからエネルギーの大海へ入っていくというのは正しくない。逆だ。
振動する波動に、生き生きとしたエネルギーの波動そのものとなった時、
エネルギーの大海のほうが、私たちの中へ入って来る。
とはいえ、実際に何が起こるのかを表現するのはとても難しい。
だからといって、起こっていることを自覚しないわけではない。

覚えておくといいだろう。
体験自体とそれの表現が、いつも一致するとはかぎらない。
知っていることであっても、言葉にはできないものだ。
人間の「知る」という能力には限りがないが、言葉の表現能力は非常に限られている。

偉大な体験はもとより、本当にちょっとした体験でさえ、
言葉では表現できない。頭が痛くても、それを言い表せない。
恋の痛みに胸が苦しくても、それを表現できない。
取るに足らない、些細な体験なのにだ。
だから、神そのものが自分に降りてきたとしたら、
それを言葉にするのは困難をきわめる。
にも関わらず、私たちにはそのことがわかる。
しかも、はっきりとわかる。

しかしそれを知るには、何とかして振動するエネルギーそのものと化す必要があるーー
あたかも嵐のように吹き荒れるエネルギーに、煮え立ち、湧き出でるエネルギーのように
ならねばならない。
そこまで強烈に振動することだ。
全身全霊で、心臓の鼓動ひとつひとつに、
ひと息ひと息に飽くことなき強烈な渇きを、
強烈な祈りと希求心をみなぎらせ、渇きそのものに、祈りと希求そのものになる。
自分の存在そのものを消し去るのだ。
その時初めて、神聖なるものとの出会いが起こる。
そして昨日言ったように、この出会いは私たちの外側ではなく、
内側で起こる。

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