OSHO ディスコース(講話)

OSHO 初期瞑想キャンプの講話「奇跡の探求《1》」より #6

「あなたは瞑想の四つのステージについて話されましたが、
もっと詳しく説明していただけますか?」

まずはじめに、最初の三つのステージは瞑想への踏み段にすぎず、
瞑想そのものではないということを知っておきなさい。
第四ステージこそが瞑想だ。
四番目が扉で、ほかの三つは扉への踏み段だ。
踏み段には扉の役割はない。単に扉に通じているだけだ。
第四ステージは瞑想への扉であり、リラックスやくつろぎ、空や虚空、明け渡しや停止、消滅や死ーー
それらを何と呼んでもかまわないがーーのステージだ。
その扉へ、最初の三つのステップによって導かれるのだ。

最初の三つのステージの背後にある基本原則はひとつ。
リラックスするには、完全な緊張状態をくぐり抜ける必要があるということだ。
その後にリラックスへ移行するのは、とても簡単になる。
日中ずっと動いていれば、夜にはぐっすり眠れるものだ。
働けば働くほど、眠りは深くなる。
睡眠と労働は正反対の状態なのに、
よく働く人がどうして眠れるのだ、と言う人がいるかもしれない。
労働と休息はまったく逆の状態だから、そういう人が眠れるわけがないと。
論理的に考えれば、一日中ベッドで休んでいる人が眠れるはずだ。
しかし実際には、昼間休息してしまうと、
夜は眠れなくなる。

人間の生活が次第に快適になればなるほど、
世界中で睡眠が減っていく。
便利になり余暇が増えるほど、眠りが少なくなる。
そして皮肉なことに、人々はゆっくり眠れるようになるだろうという希望のもとに、
便利なものを増やし続けている。だが本当はその逆なのだ。
文明化が進み余暇が増えると、眠りは消える。
ハード・ワークは睡眠に必要不可欠だからだ。
人は働くから眠るのだ。同様に、緊張が高まり極限状態に達すると、
人はすっと簡単に深くリラックスした状態へ入っていく。

最初の三つの段階は、瞑想である四番目とは正反対なものに思える。
激しく動き、緊張と狂わんばかりの混乱の極限状態をくぐり抜けたあとに、
いったいどうして安らげるのだ、と疑問に思う人もいるかもしれない。
だが、そうして初めて人はリラックスできるのだ。
真実、昼の後に夜が来て、山の次に谷が来るように、
緊張のあとにくつろぎは訪れる。
山が高ければ高いほど、その谷は深い。
丘陵地が高ければ高いほど、転落すれば峡谷の下の下の方まで落ちていく。
どんな山にも、谷があることを忘れてはならない。
実際に、谷なくして山はありえない。
山が高くなっていけば、周囲の谷に深さが生まれる。
このように緊張が高まる時、同時にあなたはリラックスして、
くつろぐためのエネルギーを集めている。緊張という山が高ければ高いほど、
くつろぎという谷も深くなる。

だからこそ私は、全エネルギーを注ぎ込みなさい、全力でやりなさい、
すべてを賭け、決して出し惜しみしてはならないと言うのだ。
緊張の頂点に達した後、底知れぬリラックスとくつろぎの淵へと降りていく。
そして、そうした完全なくつろぎの瞬間に瞑想が起こる。

基本は、緊張の頂点に達した後に、緊張をすべて落とすということだ。
緊張状態へ入っていかなくともリラックスはできるか、と多くの人が尋ねてくる。
無理だ。絶対に不可能だ。たとえできたとしても、それは名ばかりのリラックスだろう。
水中に深く潜りたければ、高いジャンプ台から跳び込むことが必要だ。
ジャンプ台が高ければ高いほど、より深くまで潜れる。
松の木々を見てごらん。だいたい四十フィートぐらいある。
この高さになるには、地中へ四十フイート根を伸ばさなくてはならない。
根を深く張れば張るほど、木は高くなる。
さて、この松の木は「根が六インチしかなかったら、何か不都合でもあるのかい?」
と尋ねるかもしれない。
何の不都合もない。ただ、その木は六インチの高さにしかならないだけだ。
そして根がまったく伸びなければ、もはやそれが木となるチャンスはない。

ニーチェは非常に洞察に富んだ箴言を書いた。彼は言っている。
天国の高みへ到達したければ、まさに地獄の淵そのものに触れなくてはならない、と。
実に洞察に富んだ説だ。天国の高みへ到達したければ、地獄の淵まで行かねばならない。
平凡な人がなかなか宗教の高みへ到ることができないのに、
しばしば罪人が到達してしまうのはそのためだ。
というのも、罪悪の中へ深く足をつっこんでしまった者は、
もっとも正直な人間になれるからだ。

瞑想の技法とは、
極限状態を通してのひとつの変容にある。
変容はすべて極点に達した時に起こる。
ある現象が極点に達すれば、変化が起こる。
壁掛け時計の振り子の動きを見たことがあるだろうか?
左へ動く時、もうこれ以上左へはいけないという所まで行くと、右に戻る。
気づいていないかもしれないが、
時計の振り子は左へ動いていく時、同時に右へ行くための勢いをためている。
そして左へ行った分だけ右に行く。あなたのマインドの振り子も同じだ。
緊張の極点まで行くと、マインドは揺り戻され、
もっとも深いやすらぎそのものの中へ入っていく緊張の極限状態へ行かなければ、
やすらぐことはできない。

とても奇妙な質問を携えて、
私の所へ来る人たちがいる。
どうやら彼らは、木を植える手間をかけずに、
何とかして花を摘み取ろうとしているようだ。
種を播かず、手入れもしないで収穫を期待しているらしい。

ある人は、もし体を揺すったり震えたりさせなかったら、
何が不都合でもあるのかどうか知りたがっている。
不都合などひとつもないだろう。
まったく何もしないのに、どんな不都合が生じるのかね?
体を動かすことがそんなにも恐いのなら、
内なるエネルギーが動き始めたらどうするのかね?
体が震えないようにしたくても、クンダリーニが上昇し始めたらどうするのかね?
いや、彼は内側では起こることを望んでいながらも、外側からは教養があり洗練された人ーー
自分でそういう人間だと思っているーーのように見せようとする。
彼はろう人形のように立っていながら、何かが内側で起きることを望んでいる。
彼は、いったん内なるエネルギーが上昇すれば、
ろう人形など溶けて跡形もなく消えてしまうことを知らないのだ。
それは消滅し、未知なるものへと場を空ける。

緊張が頂点に達するまで懸命にやりなさい。そうして初めて、くつろぎも極みに達する。
その時、やすらぎはひとりでに起こる。あなたは緊張を作り出せばいいだけだ。
静寂は神の恩寵によって訪れるだろう。
あなたはただ、緊張の嵐を最大限に巻きおこせばよい。
そうすれば渦はひとりでに静まり、静寂が広がっていくだろう。

嵐の前にやって来るような静寂はひとつもない。
嵐の後に起こる静寂こそ、生きている静寂だ。
なぜなら、それは嵐から生まれたものだからだ。
そしてこの生きた静寂に到るには、先程強調したように、
瞑想のすべてのステージをくぐり抜けることがきわめて重要だ。
そのうちの、どれひとつとして省略できるものはない。
これでもう、このステージを省いてもいいかどうか、
深い呼吸をしたり、震えたり、私とは誰か?」という問いかけをしないでもいいか、
といったことを尋ねに来る者は、ひとりもいなくなっただろう。
そう、最初の三つのステージによって、とても体系的かつ合理的な方法で、
あなたがたは一方の極限から、
もう一方の極限へと導かれるようになっているのだ。

私がひとつのステージで極限状態に達した時のみ、
次のステージへ移ることができると強調するのは、こうした理由からだ。
それは、車を運転する時にギヤを切り替えるようなものだ。

運転する時、ファーストギヤで加速できるスピードまで持っていってから、
セカンドに変える。そしてセカンドギヤでスピードが上がらないかぎり、
サード・ギヤには入れられない。あらゆる変化は極点において発生する。
マインドの変容の場合も同じだ。それも極点において起こる。

この三つのステージの意味を、充分に理解しておきなさい。
第一ステージは呼吸、深くて速い呼吸だ。呼吸は三つのステージを通してずっと続ける。
第二と第三ステージにおいても同様に続けていく。
そして呼吸は深く、しかも速くなくてはならない。
できるかぎり深く呼吸し、できるかぎり速く呼吸するのだ。
この深く速く呼吸するというルールは、
息を吸う時にも、吐く時にも守らなければならない。
だが、なぜだろう? 呼吸が何の役に立つのだろう。

呼吸は人間の「生」において、もっとも神秘的なものだ。
呼吸を媒体として肉体は魂とつながっている。
だから息をしているかぎり、その人は生きているというのだ。
呼吸の停止をもって生命は終わりとなる。

この間ある家を訪問したところ、九ヵ月間昏睡状態で寝たきりになっている女性がいた。
医者によると、彼女はあと三カ月は生きられるが、
もはや意識は二度と回復しないとのことだった。
無意識の体に点滴補給される薬と栄養分で、生きながらえていた。
彼女は完全に無意識な状態だった。

九ヵ月間、一度も意識を取り戻さなかった。
私は家族の所へ行って、
母親に彼女は死んだも同然、だと言った。
年老いた母親は言った。

「いいえ、呼吸が続いているかぎり必ず望みはあります。
医者はまったく望みがないなどと言いますが、誰がわかるもんですか。
医者がいつも正しいとはかぎりません。誰がわかるというんです?
彼女は意識を取り戻すかもしれないじゃないですか。
だってずっと呼吸しているんです。息はあるんです。
懸け橋はまだ壊れていません。いつの日か意識を取り戻せます」

呼吸は、魂と肉体をつなぐ懸け橋だ。深く速く呼吸する時、
揺さぶられているのは体だけではない。
内なる魂の細胞までも揺さぶられている。
たとえば長期間、棚の上に一本の瓶が置いてあったとする。
その瓶にいくらか液体が入っていたが、長い間揺すられることがなかったため、
瓶と中身が別々のものには見えなかった。
ずっと揺すられることがなければ、瓶と中身の液体はひとつのもののように見える。
だが勢いよく瓶を振ってみると、瓶と一緒に中身も揺れ、
やっと瓶と中身の区別がはっきりつく。
同様に、あらんかぎりの勢いで呼吸する時、あなたは体だけでなく、
内なる魂のあらゆる細胞をも揺さぶる嵐を巻き起こす。
そしてこの振動する瞬間に、あなたは体と魂の分離をはっきりと感じとる。

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