OSHO ディスコース(講話)

OSHO 初期瞑想キャンプの講話「奇跡の探求《1》」より #7

別の友人が尋ねている。

「種をまくと、芽が出るまでに時間がかかります。しかしあなたは、人間は種だ、神の種子
だと言われました。しかも、人間はまさにこの瞬間、即座にも芽を出し神へと変わること
ができると言われています。これは、一見矛盾するように思えるのですが、
ぜひ説明してくださいますか?」

確かに、このように語った。
種をまくと、それが芽になるまで時間がかかると。
だが実際には芽が出るのに時間がかかるのではなく、
種が分解して、消滅する時にのみ時間が必要となる。
発芽は一瞬のうちに起こる。
種は破れ、芽となる。
しかしもちろん、種そのものが分解して消滅するには時間が必要だ。
だから私は、エゴを崩壊させるのに時間はかからない、
とは言わずに、神は決して時間のかかるものではない、
神は、一瞬のうちに入ってくると言うのだ。
たとえば水が沸騰する時、沸騰点に達するには、
百度にまで沸騰させるには時間を要する。
しかしいったん水が沸騰点に達すれば、瞬く間に水は水蒸気になる。
それは飛躍だ。水は沸騰点に達するや否や、飛躍する。
水は消え去り水蒸気となる。水は徐々に、少しずつ蒸気になるのではない。
そうではなく、一瞬のうちに、一足跳びに蒸気となる。
むろん、水が沸騰点に達するには時間がかかる。
もはや元に戻れない地点ーー百度に達するまで、それは依然として水のままだ。
九十九度になったとしても、依然として水の状態だ。

神は爆発だーー飛躍だ。
神は爆発点だ。
この地点に到達しないかぎり、あなたは人間のままだ。
水と同じように、努力して九十九度に到達したとしてもだ。
沸騰点に達した時、あなたは神となる。
あなたが終わる地点で、神が始まる。
だからこそ私は言う。
まさにこの瞬間、それは起こりうると。
『この瞬間』とは、どういう意味だろう?

それはもし、私たちに沸騰点に達する用意が整えば、
それは一瞬のうちに起こるということだ。
大釜に入ってから、すでに長い時間が経ってはいないだろうか?
幾生も幾生も、私たちは神聖なる道において、
熱くなるように努めてきた。が、百度に到達できずにいる。
あなたには、あとどれほどの時間が必要なのかね?
もう充分、時間をかけてきたのではないかね?
そうだ。すでに充分な時間をかけてきたにも関わらず、
加熱して沸騰点に到達する術を知らずにいる。
九十九度に到りながらも、すぐに引き返して冷めはじめる。
なぜなら、百度を恐れているからだ。
私は瞑想中に、幾人もの人が九十九度に達しながらも、
引き返してしまったのを目の当たりにした。

驚くことに、本当に些細なことであなたたちは引き返してくる。
まるであなたたちは、一生懸命に引き返そうとしているかのようだ。
それはちょうど、ボンベイ行きの鉄道に乗っている男が、
大声でおしゃべりをしているふたり組がいたからといって、
行くのを取り止めて家に戻ってしまうようなものだ。
ふたりのやかましいおしゃべりが自分をかき乱したので、
ボンベイに行けなかったという理由で。
この男が、ボンベイに行きたくなかったのは明らかだ。
それくらいの騒がしさは、こういった旅では避けられないものだ。
もしボンベイに行かねばならないとしたら、
そういう取るに足らない騒ぎがあろうと、行ってしまうだろう。
絶対に、旅するのをやめないだろう。
むしろ、途上での妨げがより歩みを速めるだろう。
なぜなら、無駄話などに耳を傾ける必要はないからだ。
だがみんな本当に、取るに足らない理由で瞑想をやめてしまう。
誰かから少し押されたとか、

体を触れられたとか、地面に倒れて泣きだした人がいたと言って、やめてしまう。
まるでやめたかったために、やる気を失わせるために、
口実を待ち望んでいたかのようだ。
ちょっとした叫び声でさえ、瞑想をやめてしまうための、
格好の口実としてしまう。叫び声が、あなたと何の関係があるのだろう?
自分が何を失うのか、こんなつまらない口実の代償として、
何を支払っているのかわかっていない。
しかも、自分で何を言っているのかもわかっていない。

ついさっき、
私はある友人と道端で会ったが
「ここにいる人たちに、そんなに興奮しないように、もっと調子を落としてやるように、
言ってもらえないだろうか?さもないと、大変なことになりかねないんだ。
瞑想中には、ふたりの人が真っ裸になっていたしね」と言ってきた。

彼としては、思いやりを込めてこのように言ったのだ。
つまり、服を脱いだふたりのせいでうまくいかなかった人がいるので、
私がそういうことをやめさせるべきだと。

服の中では誰もが裸だが、
裸だが、誰ひとりとしてかき乱されない。
しかし、瞑想中に服を脱ぎ捨てた人がふたりいたからといって、
みんながかき乱されない。
これは実に皮肉なことだ。
誰かに服を脱がされて、狼狽したのならわかる。
だが他人が服を脱いだからといって、
どうしてあなたがうろたえるのだろうか?
誰かにあなたの服を強奪されたというのなら、うろたえてもかまわないだろう。
しかしながら、それもまた意味のないことだが。

イエスは
「上着を奪われたら、シャツをも与えなさい。
おそらくその人は、羞恥心のためにそれ以上奪うことはできないはずだ」と言った。
誰かに上着を脱がされたというなら、彼が抗議するのももっともだ。
しかし、なぜ他人が上着を脱いだからといって、彼がうろたえるのか?

誰かが上着を脱ぎ、自分が手をぬいてしまったのなら、
その責任はすべて相手に押しつけられるという機会を、待ち望んでいたかのようだ。
誰かが裸になるところをまじまじと見ていないかぎり、
どうやって裸になった人に、あなた瞑想を邪魔ができるのか驚くばかりだ。
あなたは瞑想していたのかね、それとも他のことかね?

本当なら、誰かが服を脱いだだの、
あなたの周りで何かが起こったなどとは、知らないはずだ。
自分の瞑想を行ない、自分自身に集中し続けなければならないのに、
他人のすることに興味があるとでもいうのだろうか?
他人の服にそこまで興味を持つなんて、あなたは洗濯屋か仕立屋かね?
あなたの懸念には、何の根拠も意味もない。

一方、服を脱ぎ捨てたふたりは……
ちょっとそのことを想像してごらん。
服を脱ぐように言われてみれば、状況が理解できるだろう。
何らかの大きな理由があったからこそ、服を脱ぎ捨てたのだとわかるだろう。
それほどの何かが、彼に起こったに違いない。
おそらく、たとえ報酬として十万ルピー出されても、
あなたは服を脱がないだろう。
だがこの人は、何ももらわないのに服を脱ぎ捨てた。
そしてあなたは、不必要にうろたえている。彼をそういう行動にまで駆り立てた、
強烈な何かの動機が生じたにちがいない。思いやりと注意深さをもって「生」を見つめ、
理解するには、人々はまだ勉強不足のようだ。

マハヴィーラが初めて服を脱ぎ捨てた時、
レンガや石を投げつけられた。
が、今では崇拝されている。
しかもその崇拝している者たちは、いたる所で服を売っている。
マハヴィーラの信奉者は布地商人だ。これはとても奇妙だ。
おそらく彼らこそ、マハヴィーラに石を投げつけた張本人だっただろう。
その償いとして彼らは今服を売っているが、
その結果、誰も裸にならずにすんでいる。
布地商人たちは、裸で暮らしたマハヴィーラの信奉者だ。
マハヴィーラが服を脱ぎ捨てた時、村から村へと追いやられた。
ひとつの村でさえも、彼をかくまいはしなかった。
彼は裸だったので、どこへ行っても追い出された。
ところが今では崇拝され、あがめられているーー
かくまってもらえなかった彼がだーー
それも、ひとつの村や宿だけではない、
死体が埋葬されている村外れの火葬場ですら、
身を隠すことは許されなかった。
村に近寄れないようにと、野犬も放たれていた。
村人にとって、何が問題だったのだろう?
マハヴィーラはただ、自分の服を脱ぎ捨てただけだ。

驚くばかりだ。ひとりの人間が服を捨てただけで・・・・
いったい理由は何だろう?
非常に恐れている。
人は内側では、ただの裸だ、実存的に本当に下劣で貧しい。
そのために裸の人を見るとーー裸であることは、貧しさや惨めさと密接に関係しているーー
自分自身の内側の下劣さや貧しさを、思い出してしまう。
これ以上の理由はない。

そして覚えておきなさい。
ヌードと裸とは、まったく別の物だ。
マハヴィーラを見ても、それをヌードだと言う人はいない。
彼の姿はそれほど美しい。
だが私たちはといえば、晴れ着の時でさえ、ヌードに見えて醜い。

あなたは、瞑想中に服を脱ぎ捨てた人たちを、
じっと観察していたのかね?
そうする勇気はなく、ちらちらとのぞき見していたに違いない。
そうでなければ、うろたえはしなかっただろうし、
そのせいで「大変なことが起こる』などとは考えもしなかっただろう。

この友人は、特に女性が邪魔をされたと手紙に書いてきた。
それはどういう意味だろう?
彼女たちは、服を脱ぐ人がいるかどうかを見物するために、ここにいるのだろうか?
彼女たちは瞑想するためにここにいたはずだが、
瞑想しないでこっそり他人を観察していたのだね。
彼女たちは自己想起を中断し、自己を観つめるのをやめたかわりに、
裸になった人たちを一生懸命盗み見したり、覗き見したりしていたのだ。
だとしたら、それはきっと大変だったはずだ。
誰が裸の人に注目していなさい、と頼んだのかね?
あなたは目を閉じていた。裸になった者がいたかどうかなど、
何の関係があるのかね?
裸になった者はと言えば、彼はあなたを一度も見なかった。
裸の人が私の所にきて、女性がいるので恥ずかしいとこぼすのなら、
話はわかる。だが、この人のせいで女性たちが大混乱した、
というのは不思議だ。もし彼をじっくり見ていたら、
きっとあなたたちのマインドは喜んだだろう。
しかも、裸がいかに純粋無垢なものなのかを理解できただろう。
得るところは大いにあったろうし、
マインドが軽くなって重荷がおりたように感じただろう。
あなたに多大なる変化をもたらしただろう。

だがこれではまるで、本当に自分のためになることは、
すべて避けると決心しているかのようだ。
おそらく、不幸を招くことを望んでいるのだろう。
しかも、私たちの狂った信念や概念には、終わりというものがない。

これはある者たちにとっては避けられないことだが、
瞑想中に、服を脱ぎ捨てざるをえない時が来る。
だが彼らは、私の許可をとって服を脱いだ。
だから、もし爆発しそうなら、私に向かって爆発したほうがいい。
ここで体を見せた者たちは、
みな私の許しを得ていたし、私は彼らの行動を承認していた。
彼らは私のもとにやって来て、
服を脱ぎ捨てなければ、
内側で何かが滞ってしまいそうな感じが瞑想中に起こると訴えた。
そこで私は、服なしでやり続けなさいと言ったのだ。
しかしながら、これは彼らに関する事だ、あなたにではない。
なのに、どうしてあなたが気をもむのかね?
もしこのことで彼らを咎めた者がいたとしたら、
それは完全に間違っている。
あなたに、そういうことをする権利はない。

純真無垢なマインドには、いろいろなことが障害となる、
無垢の瞬間が訪れることがあると理解しておくべきだ。
服は人間の抑圧の中でも、もっとも強力なもののひとつだ。
一番根深いタブーになっている。
人間にとって一番古く、深くしみ込んでいる慣習の典型だ。

やがて社会生活の中で、衣類が文明全体の象徴となる時がやって来るだろう。
だが同じように、全員にではないがある人たちには、
衣類がマインドにとっての不必要な重荷と感じられる時がやって来るだろう。

仏陀は一生涯服を着ていた。
イエスもそうだ、
しかし、マハヴィーラー服を捨てた。
そしてマハヴィーラの時代には、女性に服を脱ぎ捨てる勇気などあるはずがなかったが、
マハヴィラと同じくらい果敢な女性も現れた。
マハヴィーラには、女性の弟子が非常にたくさんいた。
男性の弟子より多く、男性はわずか一万人だったが、
女性は四万人もいた。
女性の弟子で、服を脱ぎ捨てる勇気のある者はひとりもいなかった。
そのためマハヴィーラは
「女性たちは、もう一度生まれてこなくてはならない。
彼女たちは男として生まれ変わらないかぎり絶対に、
モクシャ、つまり自由を達成できないからだ」
と言わざるをえなかった。

なぜなら服を脱ぎ捨てるのを恐れている者にとって、
肉体を脱ぎ捨てることは、遥かに恐ろしいことだからだ。
それゆえマハヴィーラは、女性として生まれてくるあいだは自由はあり得ない、
だから女性は男性として生まれ変わらねばならない、
という教えを定めざるを得なかった。この教えにはそれ以外の理由などない。

しかし勇気ある女性もいた。
カシミールのラーラはそのひとりだ。
もしラーラと出会っていたら、
マハヴィーラはそんなことは定めなかっただろう。
カシミールのラーラは、マハヴィーラにまさにそっくりだ。

もしカシミールの人に、彼女について尋ねたら
「私たちカシミール人は、ふたつの名しか知りません、
アッラーとラーラのふたつです」と言うだろう。
ラーラは裸で暮らしたが、カシミール全土で彼女は崇拝され、
愛されている。彼女の裸体のなかに、
人々は生まれて初めて、驚愕するほどの美しさと純真さを見た。

子供の純粋さと喜びが、彼女から輝き溢れていた。
もしマハヴィーラが彼女を見ていたら、
彼につきまとう汚点を洗い流すことができただろう。
マハヴィーラには汚点がある。
それは、自由は女として生まれてくるかぎりありえないと語ったことだ。
だが、マハヴィーラにその責任はない。
責められるべきは、実のところ彼の周りにいた女性たちだ。
彼女たちを見て彼は「女性が、肉体に対する執着を落とすことなどできるのだろうか?

衣服への執着があんなにも強いというのに。
外にまとう服への愛着があれほど強いのなら、
肉体という内なる服への愛着を拭い去ることは無理だろう」と語ったのだ。
私はあなたたちに、服を脱ぎ捨てろとは言わない。
そうする人がいてもやめさせる理由はまったくない。
瞑想キャンプ中でさえ、この程度の自由ーー望めば
人はこれぐらい自由、になっていいのだがーー
が許されないなら、世界中のどこを探しても、
『この自由」を見つけるのは絶対に不可能だろう。

瞑想キャンプは探求者のためにあるのであって、
見物人のためではない。
ここでは他人の邪魔をしないかぎり、完全なる自由が許されている。
誰かがあなたの自由を侵害し、困ったことがあれば、
不平を言うのはもっともだ。裸になり、あなたを殴ったり
ケガ苍させたりする人がいれば、それをやめさせるのは当然だ。

だが、自分自身に対して何かしているかぎり、
自分のことをしているかぎりは、誰もその人に口出しもできなければ、
苦情を訴える権利もまったくない。

いわゆる「瞑想の妨げだ」と思われることを見てみると、
実に愉快だ。誰かが裸になると、大勢の瞑想がだいなしになってしまう。
そういういい加減で弱々しく、脆い瞑想を大事に抱えこもうとしても無駄だ。
何の価値があるのかね?
服を脱ぎ捨てる人がいなかったら、うまくいっただろうという程度のものに。
だが、それはありえない。
そうではなく、そんなくだらない問題、
くだらなすぎる問題を取り除かなくてはならない。
サダーナ、つまりスピリチュアルな探求こそ一番勇気のいるものだ。
ここで私たちは玉葱の皮を剥くように、
一層ずつ自分自身にまとったものを脱いでいかなくてはならない。

サダーナの最たる奥義は、自己のもっとも内なる裸に直面することだ。
服を脱ぎ捨てる必要はないが、
ある人たちにはそうせざるを得ない状況がときどき起こる。
覚えておきなさい、
あなたがたが、この状況を外側から考えることは不可能だ。
あなたたちには、それが良いとも悪いとも判断する権利もなければ、
それについてあれこれ考える権利もない。
そんなことをするあなたは何様かね?
どうしてあなたがそんなことをするのだろう?

それに、どうやってあなたに物事がわかるというのだろうか?
マハヴィーラを村から追い出した人たちが、
悪人だったとでも思うのかね?
いいや、彼らはあなたがたと同じくらい文明化され、教養もあった。
しかしながらあなた方と同じように、マハヴィーラは裸なので、
自分たちの所には彼の居場所などないと思っていた。

それにしても、いつも人々が同じ過ちを犯すのは嘆かわしいばかりだ。
あの道端で 会った友人は、愛と思いやりを込めて語っていた。
「あなたは、彼らが裸になるのをやめさせるべきだ。
さもなければ、ボンベイでの瞑想の参加者は急激に減るだろう」とね。
減るなら減ったでかまわない。ひとりも来させない
ふさわしくない人が瞑想に来る必要はまったくない。
たとえひとりしかやって来なくても、私にとっては何の違いもない。
この友人は言った
「女性は完全に離れていくだろうし、女性は誰ひとりとしてキャンプに参加しないだろう」と。
そんな人たちは離れさせておこう。
誰も彼女たちに、キャンプに参加するように言う人などいない。
決めるのは彼女たち、彼女たち自身だ。そして、もし参加することにしたのなら、
私が決めた通りにやることだ。
キャンプは、彼女たちの望む通りの条件で行なうことはできない。
そして、私があなたたちの意向に沿ってキャンプをやる日には、絶対に参加しないほうがいい。
そうなったら、私などあなたたちにとって何の役にも立たないだろう。
瞑想キャンプは私の意向通りに行なう。
私は、あなたたちのために来るのではないし、
あなたたちの望みにかなうようにも振る舞えない。

あなたたちが私に指示を与えたり、
指図することはできない。

この世にいないグルやマスターたちは一般には受けがよいが、
それは彼らが死んでからのことだ。
あなたたちが、自分の好きなように彼らを操り、
ごまかすことができ、彼らには何ひとつできないからだ。
だが、そのマスターが生きていたら、
きっとあなたにとってやっかいな存在となっているだろう。
生きたマハヴィーラは叩かれ、死んだマハヴィーラは崇拝されている。
それは実に自然なことだ。
死んだマスターは世界中で崇拝され、生きているマスターは面倒な存在となる。
なぜなら、生きているマスターを鎖で縛ったり、コントロールすることはできないからだ。
あなたがたがやって来る理由の中で、正当なものはひとつしかない。
だが私にとって、誰が来て誰が来ないかということはどうでもいいことだ。
誰であれ来る人はみな、なぜ、そして何のために自分が来たのかを、
しっかりと理解した上で来てほしい。

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