OSHO ディスコース(講話)

OSHO 初期瞑想キャンプの講話「奇跡の探求《1》」より #2

ある友人が尋ねている。
「クンダリーニを目覚めさせるのは、危険なことなのでしょうか?
もしそうであれば、どのように危険なのでしょうか。危険があるのなら、
どうしてクンダリーニを目覚めさせなければならないのでしょうか」

クンダリーニの目覚めには、多大な危険がともなう。
実のところ、自分にとって人生と思えるもの
すべてが失われてしまう危険性がある。
クンダリーニが目覚めると、
人はそれまでとは異なった人間となる。すべてが変化する。
すべてがだ!関係性、感情、世界といった、昨日まで馴染みのあったもののすべてが変わってしまう。
変化をもたらすものは、すべて危険だ。

石炭がダイヤモンドになるには、石炭としての生命を断たねばならない。
だから危険性は非常に高い。が、それは石炭としての危険にすぎない。
石炭がダイヤモンドになるには、それが石炭として消え去った初めて可能だ。
おそらくあなたがたは、ダイヤモンドと石炭とは、
本質的にはまったく違わないことを知らないだろう。

もともと、両方とも同じ元素に属している。
ダイヤは非常に長い歳月を経るうちに、石炭が変化したものだ。
化学的に言えば、石炭とダイヤモンドは基本的に何ら違いはない。
しかし石炭がダイヤモンドになりたかったら、石炭のままではいられないし、
非常に危険な状態に直面することになる。

同じように、神を求めて道を歩んでいく人も、危険に直面する。
その人は、人間として死ぬことになる。河も海へ合流する時には、
大きな危険に直面する。その時、河は消え去る。それを避けることはできない。
だが「危険」とはどういうことなのか?
それは消滅だ。
消え去る覚悟、死にゆく覚悟のある者だけが、
神へ至る旅へと向かうことができる。

死は、瞑想のように、私たちを完全に消滅させることはない。
なぜなら死とは、人がある体から離れ、別の体に入ることにすぎないからだ。
死においては、あなたが変わることはない。
あなたが外側にまとっている衣だけが変わる。
あなたは、依然として同じままだ。
だから死には、人々が考えているほど大きな危険はない。
瞑想は、死よりもはるかに危険だ。
なぜなら、死があなたから服を奪い取るだけなのに対して、
瞑想はあなたから、あなたそのものを奪い取ってしまうからだ。

瞑想とは、完全なる死だ。
これまで、知るに至った者たちは
「瞑想とは死だ、全面的な死だ」と言った。
瞑想は衣装だけではなく、すべてを変化させる。
だが、もし河が海になりたければ、命を賭けねばならない。
実際は河が海の中へ流れ込もうと、失うものは何もない。
まったく何も失うこと無く、河は海をのものへと大成する。
そして石炭がダイヤになる時にも、失うものは何もない。
石炭は、機が熟してダイヤになるのだ。
だが石炭は、石炭だあるうちは、
無に帰することを恐れる。
河は河であるうちは、無に帰してしまうことを恐れる。
それは、海と合流しても何も失うことはなく、
海そのものになるのを知らないからだ。

人間は瞑想において、それと同じ危険に直面する。
危険であるのが明らかなのに、なぜ危険を冒さなくてはならないのかと、
この友人は尋ねている。これは、もう少し深く理解しておく必要がある。

実のところ、人は危険であればあるほど、危ない生を送れば送るほど生気を帯び、
恐れば恐れるほど、生気を失っていく。
事実、死ねば決していかなる危険にも直面しなくなる。
死んだ者が免れられるひとつの大きな危険とは、
もう死ぬことはありえないということだ。
生きている者だけしか、死ぬことはできない。
そして、生き生きと生きれば生きるほど、
劇的に死を迎えることができるようになる。

ある所に岩があり、そのすぐそばで、一輪の花が咲いていた。
その岩は、花にこう言うかもしれない。
「お前はなんてバカなんだ、何でわざわざ、花なんかを咲かせるんだ、
お日さまが沈む前に萎んでしまう身なのに」。
実際、花であることはとても危険だ。
だが岩であるのは、まったく危険がない。
夕暮になって花が萎んでしまっても、
岩は何も変わることなく、そこにいるだろう。
岩は大きな危険に直面せずにすむ。
なぜなら、岩はそれほど生きていないからだ。
活力に満ちて生きれば生きるほど、危険は大きくなる。

その人が生きている分だけ、人は危険にさらされる。
より強烈に生きれば生きるほど、より危険にさらされる。
瞑想とは、もっと大きな危険だ。
なぜなら瞑想は、もっとも深遠なるものの、至高なるものへと至る扉だからだ。

けれでもこの友人は、危険があるのに、どうしてわざわざ求めなくてはならないのか、
その理由を知りたがっている。
いいかね、人はまさに危険があるからこそ、進まねばらならないのだ。
危険のない所へ行ってはならない。
もしまったく危険がないのなら、決して行ってはならない。
なぜならそこには《死》しかないからだ。
そしてもし危険があれば、あなたは何としても行かねばならない。
なぜなら、そこにこそ《生》の宝が秘められているからだ。

人はみな安全なものを好む。
危険性のある不確実なことを恐れ、それを回避して危険から身を隠す。
おまけに、そうするうちに《生》そのものまでを、失ってしまう。
生を安全なものにしようとして、生を失う人が大勢いる。
本物の生を生きるのは、安全を顧みず、自由奔放に、冒険的に生きる者だけだ。
確かに危険はある。しかしだからこそ、それに向かって進むべきなのだ。
それは、この上もなく危険なことだ。
エベレストに登ることも、それほど危険ではない。
月へ行くことでさえ、それほど危険ではない。
つい最近、宇宙飛行士が何人か行方不明になったが、
その危険も大きいが、その危険性は体だけに関わるものだ。
死によって変化を被るのは体だけだが、
瞑想における危険は、月へ行く際の危険より大きい。

しかし、なぜ私たちは危険を恐れるのだろうか?
なぜこれほど危険を恐れるのか考えてみたことがあるだろうか。
こうした恐怖の裏にあるものとは、無知だ。
自分というものが終わってしまうかもしれない、
消え去ってしまうかもしれない、死んでしまうかもしれないと恐れる。
私たちは何とかして危険を防ごうと安全のために壁を築き、
中へ入って隠れようとする。何とかして危険から逃れようとして、
知っているかぎりのあらゆる手を尽くして、逃げようとする。

聞いた話だが、ある王様が大きな宮殿を建てたそうだ。
ところが王様は安全を期すために、宮殿に扉をひとつしか付けなかった。
ひとつの入り口だけだ。その宮殿には敵が入って来ない
ようにと、他の扉や窓はひとつもなかった。
そのため宮殿は、住居というよりお墓に近かった。
しかし、たとえひとつの扉でも危険はあった。
その扉を通って、暗殺者が宮殿に出入りできるからだ。
そこで王様は、一千人の番兵を置いてその唯一の扉を守らせた。

隣国の王は、この王様がかつてないほど安全な造りの宮殿を建てたと聞いて、
その宮殿を訪れた。彼は宮殿を見て、満足したように言った。
「この宮殿は非常に安全だ、敵からの侵害を受ける心配はまったくない」。
さらに彼はこう言った。「私も自分のために、このような宮殿を建てたいものだ」

ふたりの王様がその宮殿から出てきた時、
隣国の王は、非常に美しく堅固な宮殿を建てた友人をもう二度誉め讃え、
自分もまた同じような宮殿を建てると言った。ところが、彼が別れをうとした時、
その近くで腰をおろしていた物乞いが、声を上げて笑いだした。

宮殿の持ち主である王様は、その男になぜ笑っているのか尋ねた。
すると乞食は言った。
「わしの見ますところ、この建物には構造上の間違いがございます。
わしは、この建物が造られ始めた時からここにおりましたが、
このことを王様に話す機会を、ずって待っておったんです。
この建物には誤りがーーたったひとつ、誤りがあります」

王様は、それを知りたがった。
すると乞食は、このように言った。
「王様が作るのをお許しになったあの扉こそ、危険です。
あれは危険です。おそらく、誰も建物の中には入れないでしょうが、
死神があの扉から入って来ることは、間違いございません。
そこで、わしにいい考えがあるんですが、中に入って、
内側からブロックであの扉を閉じてしまうんです。
そうすれば完全に安全で死神も入ってきやしませんよ」

そこで王様は言った、
「頭がおかしいのか、そんなことをしたら、死神が宮殿に入るまでもない。
扉を封じたとたんに、私は死んでしまう。この家は、お墓になってしまうではないか」

そこで物乞いは言った、
「この扉がなかったら、これはとうの昔に、お墓になっていましたよ。
王様も認めましたね、扉をなくしたらお墓になることを」。
王様が頷くと、乞食は続けてこういった、
「扉をなくせばなくすほど、家はお墓のようになっていくのです。
いまや、ひとつの扉しか残っていません」

さらに、物乞いはこう言った。
「わしもまた、
家の中に閉じこもって生活している時期がございました。
でも、その時気づいたんです。閉じこもった生活など、死んだも同然の生活だと。

王様も、もし宮殿に唯一残っている扉が封じられたら、
お墓になってしまうことがおわかりでしょう。
わしは住んでいた家の壁をすべてぶち壊し、今では青空の下で生活しています。
王様のおっしゃるように、もしあの建物に、窓ひとつなくなったら完全におしまいです。
四方の壁を取り除いて無防備にすれば、すっかり息を吹き返すことは確実です。
もう一度申し上げますが、壁を取り除いて無防備にすれば、宮殿は蘇ります。
いきいきと蘇るでしょう。もちろん危険はありますが、
そのほうが実りある生を送れますよ」

危険はある、それゆえに魅力があるのだ。だからこそ、それに向かって進まねばならない。
危険に直面するのは、ダイヤモンドではなく石炭だ。
危険にさらされるのは、海ではなく河だ
危険にぶつかるのは、あなたの内なる神ではなく、あなただ。
だから今、このことを自分でよく考えてみなさい。
もし身の安全を図れば、あなたは神を失うことになる。
もし神を見出したかったら、あなたは自分というものを捨てなくてはならない。

ある晩、ある者がイエスに質問した、
「あなたがいつも話している神を見出すには、何をすべきなのでしょうか?」。
イエスは「自分を捨てる以外、何もする必要はない。わが身を守ってはならない」と答えた。
その男は「何をおっしゃるのですか? 私が死んだら、何を得るというのですか」と言った。
イエスは答えた「自らを失う者は真の自己を見出し、自らを守る者は、永遠に真の自己を失う」と。

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