OSHO ディスコース(講話)

OSHO 初期瞑想キャンプの講話「奇跡の探求《1》」より #5

ある人が尋ねている。
「人は、神の恩寵によって瞑想を達成するものなのですか?」

これは有益な質問だ。理解しておくように。
なぜなら、このことで多くの誤解や過ちが生じてきたからだ。
瞑想が神の恩寵によって達成されるのなら、
自分で何かをする必要はないと思い、
本当に何もしない人がとてもたくさんいる。
もし神の恩寵のことを、自分では何もする必要はないと思い、
本当に何もしない人がとてもたくさんいる。
もし神の恩寵のことを、自分では何もする必要がないという
意味に捉えているとしたら、途方もない間違いだ。

また、神の恩寵は誰にも等しいものではなく、
多く受ける人と少ししか受け取れない人がいるという誤解もある。
実のところ、神に選ばれた者もいなければ、
特に気に入られている者もいない。
神までがえこひいきをしようものなら、
もはやこの世に正義など望むべくもない。
神はある者には慈悲深く、他の者には無情だという意味に
神の恩寵を捉えているとしたら、それは完全に間違っている。

しかし、神の恩寵によって瞑想を達成するということは、

多く受ける人と少ししか受け取れない人がい
別の意味からすると完全に正しい。
だが、まだ瞑想を達成していない者たちの言うことではない。

光明を得た者たち、瞑想を達成した者たちが言うべきことだ。
というのも「それ」が起きたとき、人が「それ」に至った時、
それまでの努力など、まったく何の関係もなかったかのように思えるからだ。
達成はまさに途方もないことであり、努力などまったく取るに足らないことのように思える。
努力によってそこに至ったなどとは、とても言えなくなる。

そこに至った時、人はその途方のなさに圧倒され
「私の努力でこんなことが起こるわけがない。
これを見出すために、私はいったい何をしてきたというのか。
どんな代償を払ったというのか。そのために何を差し出してきたのだろう。
捧げられるものなど私にあっただろうか。何ひとつとしてない」と思う。

神の果てしない無限の至福が降り注ぐ時、
人は誰しも「あなたの恵みのおかげです。ああ主よ!
あなたのもとへたどり着けたのも、あなたの恩寵のおかげです!
恩寵なしでは、とても私などの及ぶところではございません」
と感嘆の声を上げる。

だが忘れてはならないのは、これは聖なる者たち、
光明を得た者たちの言う言葉だということだ。
もし光明を得ていない者、駆け出しの者がこのようなことに捉われたら、
永遠に道を誤るだろう。努力は絶対に必要だ。人は必ず努力しなくてはならない。

いわゆる瞑想や光明という現象は、
ちょうど陽の光を入れるために、真っ暗な家の扉を開け放つのに似ている。
たとえ太陽が東から昇って来ても、扉が閉まっていれば、依然として私たちは暗躙の中だ。
だがもし扉を開けて待っていれば、日光はおのずと射し込んで来る。
それ以外、日光をとり入れるために必要な努力など何もない。
太陽や日光を容器に入れ、家に持ち帰ることなどできないのだから。
太陽はおのずと射して来る。

皮肉なことに、努力したところで太陽を持って来ることはできないが、
太陽を締め出し、入れなくすることなら間違いなくできる。
扉を閉め、目を閉じてしまえば、太陽であってもどうすることもできない。
私たちは、日光を家の中に入れないようにすることならできる。
日光を遮るのは可能だ。だが招き入れるのは不可能だ。
ただ扉を開けておきなさい。そうすれば日は射してくるだろう。

しかし日光が入って来たとしても、
自分が太陽を引っ張って来たのだとは言えない。
自分の手柄にはできない。太陽のおかげで日光が家に射してきた、
扉を閉じていなくて幸運だった、としか言うことはできない。
人にできるのは、神が入って来るための扉、ドアになることだけだ。
努力が及ぶのは、扉を開ける所までだ。

「神」が訪れるかどうかは「神」しだい、「神」の慈悲しだいだ。
しかしながら神の慈悲は途方もない。あらゆる扉の前に、それは絶えず注がれている。
だが閉じている扉ばかりだったら、いったい神はどうするのだろう?
神はすべての扉をノックするが、閉じているとわかれば帰ってしまう。
しかも私たちは、自分の扉をあまりにも固く閉めている。
そして神がやって来てノックすると、
実に様々な理由をつけては必ず言い訳をし、それで良しとしてしまう。

ひとつ、あなたがたに聞いてもらいたい話がある。私の大好きな話だ。
百人の僧侶で管理している大きな寺院があった。
ある晩僧院長が夢の中で、翌日神が寺院を訪れるというお告げを授かった。
彼はそれを信じなかったーー
僧侶ほど疑い深い人間には、なかなかお目にかかれない。
彼が夢を信じなかった理由は他にもあった。
宗教を商売とする者は、決して宗教を信じない。
そういう者たちは宗教を利用するだけで、
信仰や真理につながることはまったくない。
私利私欲のために信仰する者以上に信仰の薄い人間は、世界中にいない。
だから神が本当に自分の寺院を訪れるとは思えなかったのだ。

僧院長は何年もの間ずっと僧職に就いていたが、
そういうことを信じたことは一度もなかった。
もう随分と神を礼拝してきたが、これまで神が自分の寺院を訪れたことなど、
一回たりともなかった。毎日神に食物を供えていても、
実質的には自分に供えたのと変わりがないということを、
よくわきまえていた。毎日神に祈りを捧げていたが、
耳を傾けてくれる者などひとりもなく、
祈りは虚しく空中に消え去るばかりだということもよくわかっていた。
そのため彼は、あのお告げは本物ではなく、単なる夢にすぎない、
それに正夢などめったにあるものではないと思った。

しかし、その夢が現実のものになりはしないかという不安もあった。
時として夢が現実になり、私たちが現実だと思っていたものが、
夢だったとわかることがある。
ときどき夢だと思っていたものが現実になることがある。
結局、僧院長は昨夜の夢を身近な者たちに話すことにした。
彼は僧侶たちに言った、
「冗談のような話だが、君たちには話しておこう。
昨夜、夢の中で神が、今日ここを訪れると言われたのだ」。
僧侶たちは笑って言った、
「夢を信じるなんて気でもふれたのですか?
まあともかく、それは他の者に話さないことですね。
さもないと気違いだと思われてしまいますよ」。
だが、僧院長は言った、
「万一、神がいらっしゃるといけないから、
それなりの用意をしておくべきだろう。
たとえいらっしゃらなくても何の問題もないが、
万一やって来られた場合、用意しておけば無難だ」

そこで寺院の敷地も含めて、
境内全体をくまなく磨き、洗い、掃除してきれいにし、
花や旗、花網などで美しく飾りたてた。
燈が灯り、香が焚かれた。香水もまかれ、万全の準備がなされた。
僧侶たちは、昼間のうちにくたくたになってしまった。
しかし神は現れなかった。今か今かと通りを見ていたが、
彼らはがっかりして言った。
「やはり夢は夢だったんですね。神はおいでになりそうもありません。
こんなことを信じたなんて、私たちもバカですね。町の者に言わなくてよかった。
言っていたら、大笑いされたでしょうね」

日が暮れる頃には、僧侶たちは完全にあきらめて言った。
「では、神のために作った豪華な食事を頂戴してしまいましょう。
いつもこうですね。神へのお供えは結局私たちが頂くことになる。
人っ子ひとりやって来そうにありません。
夢を信じるなんて、まったくどうかしていましたよ。
皮肉なもんですね。そうと知りつつ、バカなことをしたんですから。
他の者たちがこんなことをしても、それは仕方ありません。
だって彼らは知らないんですからね。
でも、私たちは神など絶対に現れないことを知っています。
神など、どこにいると言うんですか?
寺院の中には偶像がありますが、ただそれだけですよ。
それにわれわれは、仕事として、職業として神を礼拝しているだけですからね」。
そして彼らはたっぷりと食事をし、疲れていたので早々に床に就いた。

真夜中、一台の馬車が寺院の門に止まる物音が聞こえた。
寝ていた僧侶のひとりがそれを聞いて神の馬車だと思い、
他の者たちに大声で叫んだ。
「みんな起きろ!どうやら一日中待ち望んでいた神が、
ついにいらっしゃったぞ。馬車の音がしたんだ」。
僧侶たちは、彼をバカにして言った。
「うるさいなぁ。頭が変になったのか?昼間ずっとバカなことをしてたんだから、
もう夜はぐっすり寝させてくれよ。
それは馬車の音じゃなくて、空で雷雲でもごろごろ鳴っていたんだろうよ」。
こうして彼らはあっさりと事を片付け、寝床に戻ってしまった。

その時、馬車は門の前に止まっていた。
そして誰かが寺院の階段を昇って来て、扉を叩いた。
再びひとりの僧侶が目を覚まし、仲間たちに大声で叫んだ。
「昼間ずっと待っていたお客様がみえたようだ。扉を叩いておられるぞ」。
他の僧侶たちは先程と同じく、彼を怒鳴りとばした。
「お前は正気か?眠らせてくれよ。扉が突風にでも吹かれたんだろう。
誰も扉を叩きやしないさ」。
こうして再び理屈をつけて、寝床に戻ってしまった。
翌朝、彼らが起きて門の所はで行ってみると、
驚いたことに階段には二、三の足跡があった。
確かに、誰かが夜のうちここを昇ってきたのだった。

そして道の方には馬車のわだちも残っていた。
もはや、夜中に馬車が門の前まで来たことは疑いようもなかった。
さらに不思議なことに、階段にある足跡は、普通とはまったく違う見たこともないものだった。
僧侶たちは泣き崩れ、馬車が止まっていた所を転げ回り始めた。
すぐに村中の人々が門の所に集まって来た。
来た人はみな驚いて尋ねた。「どうしたのですか?」。
僧侶たちは言った。
「どうした、などと尋ねないで下さい。昨夜神がこの扉を叩いていらっしゃったのに、
私たちはあっさりとやりすごしてしまったのです。もはや私たちは地獄行きです。
私たちは神が扉を叩いたのに、風がはためいている音だと思ってしまったのです。
神の馬車がやって来たのに、雷がごろごろ鳴っているだけだと思ってしまったのです。
本当は何ひとつ理解していなかったに、ゆっくり眠りたいがため、
簡単に理屈を作って片付けてしまったのです」

神はあらゆる扉を叩く。神の恩寵はすべての家に訪れている。
だが、人々の扉は閉ったままだ。
扉を叩く音が聞こえた時でさえ、人々はすぐに言い訳を考えて、
あっさり聞き流してしまう。

昔は「お客様は神様だ」と言っていた。
この格言には少し間違いがある。正しくは神が客なのだ。
神は客として扉の前で待ち続けている。だが、扉は閉まったままだ。
神の恩寵は、すべての人の前に等しくある。
だから、恩寵によって人は成就するのかなどと尋ねてはいけない。
恩寵によってのみ、人は成就する。
私たちの努力は、扉を開け、道筋を遮っているものを取り除く手助けになるものだ。
神が訪れるか否かは、神の自由だ。

OSHO 初期瞑想キャンプの講話
「奇跡の探求《1》」覚醒の炎より #5

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